歌っているのは、私の大好きなスアド・アブドラさんという、かつてのイラクの国民的歌手です。花嫁さまがたのリラックスぶりが当時の緊張感のなさを物語ります(もちろん、ある程度の階級の方でしょうけれど)。
サダム・フセイン時代のイラクは明るい国でした。
スアド・アブドラさんの私の好きな曲は以下です。
アメリカはこういう「中東に女性に自由な感じがある国がある」ことが嫌いだったようです。
歌っているのは、私の大好きなスアド・アブドラさんという、かつてのイラクの国民的歌手です。花嫁さまがたのリラックスぶりが当時の緊張感のなさを物語ります(もちろん、ある程度の階級の方でしょうけれど)。
サダム・フセイン時代のイラクは明るい国でした。
スアド・アブドラさんの私の好きな曲は以下です。
アメリカはこういう「中東に女性に自由な感じがある国がある」ことが嫌いだったようです。
フェロー諸島のソルヴァーグスヴァトン湖

Sørvágsvatn
ソルヴァーグスヴァトン湖の場所

Google Map
ソルヴァーグスヴァトンはフェロー諸島最大の湖。ソルヴァーグル市とヴァーガル市の間にあるヴァーガル島に位置している。
…この湖は海のすぐ近くにあるが、その表面は海面から約 40mの高さだ。高い崖に囲まれているため、完全に海に注ぎ込むことができず、ボスダラフォスル滝がその出口となっている。ボスダラフォスルの両側の崖の高さは、特定の視点からは湖が実際の海面よりも高いように錯覚することがある。
沖縄民謡あるいは島唄といえば、私が大好きなのは「風狂歌人」こと嘉手苅林昌さんの歌と声です。一番好きなのは、前田節(めーんたーぶし)というもので、今年の暑い夏はよく聴いています。
この女声のコーラス(?)というのか合いの手(?)には、まるでアース・ウインド・アンド・ファイア的な宇宙的広がりがあります。
嘉手苅林昌 – 前田節~さふえん節~稲摺節
(歌詞の意味 / たるーさんによる)
今年前の田の稲をみてほしい。今年飲まない酒はもういつ飲むのか。
だから皆の衆 呑もうではないか。呑んで遊ぼう。
今年農作はあのように美しい。
稲はなびき田の畔を枕にするほど実り豊かだ。
見事にうまくしあがっている農作物は蔵に積め入れてお祝いしましょう
この荒川央さんの記事は、それがテーマではないのですが、私は人生で「お酒が一滴も飲めない」という人をずいぶんと見てきまして、場合によっては助けてもいました。
そのせいもあり、「飲めない人にお酒を飲ませることは本当に良くない」と若い頃から知るようになりましたが、それが遺伝子と関係あるというようなことはある程度、漠然とわかっていましたが、荒川博士が具体的に書いて下さっていまして、なるほど、と思った次第です。
お酒を一滴も飲めない人もいれば、(私のように)一升飲んでも酔いさえしないという人もいる…。このあまりの差はいつも、やや不思議でした。
私が、生涯の恩人である田中くん(お酒を一滴も体が受け付けない)という人と懇意になったのも、彼が年上の人たちから、むりやりお酒を勧められているところを止めに入ったことからでした。
私自身、飲めない人にお酒を飲ませることはしたことがないですし、それは絶対にしてはいけないことです。
もちろん、この荒川さんの記事は、コロナワクチンを巡っての大きな話を書かれているわけですけれど、この数千年の日本人の遺伝子の変異をわかりやすく書かれているだけでも腑に落ちるものでした。
以下は、そこからの抜粋です。全文はこちらからどうぞ。
荒川 央 2020/08/20
…日本人の中にアルコールに極端に弱い人がいるのはアセトアルデヒド脱水素酵素2 (ALDH2) の突然変異による「下戸遺伝子」のためです。
縄文人はほとんどが野生型ALDH2遺伝子を持っていたのですが、朝鮮半島より渡来した弥生人により日本に変異型がもたらされました。
野生型のALDH2では487番目のアミノ酸がグルタミン酸ですが、変異型ではこのグルタミン酸がリジンに置き換わっています。
野生型と変異型を1コピーずつもつ人でもアルコール代謝が20%以下となり、極端にお酒に弱くなります。
アルデヒド脱水素酵素は4量体であり、構成する酵素全部が活性型でないと働きません。これが野生型/変異型のヘテロ型がお酒に弱い理由です。
そして、変異型と変異型の組み合わせではALDH2の活性はほぼ0となります。
日本の遺伝子型の割合はALDH2野生型/野生型 (縄文/縄文 = お酒強い) 53%、ALDH2野生型/変異型 (縄文/弥生 = お酒弱い) 43%、ALDH2変異型/変異型 (弥生/弥生 = お酒飲めない) 4%です。
猫、ずっと赤ちゃんをなめてます。これでこの猫が外にも行っている猫なら最高です。
https://twitter.com/snowPauda/status/1691665167980073352
メルマガと連動した資料を載せています。
8月15日午前11時頃から午後7時頃までの「全電子数」
※ これは全部ではなく、最初のほうと最後のほうを抜粋していますが、ほぼ 8時間ほど、ずっとこの状態でした。


ふだんはどんな感じかといいますと、「普通は、ほとんどが薄い緑から青で示される」のです。
たとえば、こちらのページには、今年 6月からの毎日の全電子数のリンクがありますが、どの日をクリックしても、おおむね、以下のような表示が多いです。

8月15日に、半日くらいも赤い表示が続いていた理由も、その結果もわからないですが、ご報告です。
米ゼロヘッジの記事に「昨日8月11日はヒップホップ50周年だった」とありました。
リンクされているページを見てみましたら、DJ のクール・ハークという人がターンテーブルで演奏した日がこの 1973年の8月11日で、この日がヒップホップの誕生日ということになっているようです。
しかし、「文化のしてのヒップホップ」が生まれたのは、これと同年の1973年ではあっても、アフリカ・バンバータ(本名:ケヴィン・ドノバン)が、「ヒップホップ宣言」をおこなった、1973年11月12日だと私は確信します。
アフリカ・バンバータ

もう十何年前の記事だかわからないですけれど、ずっと以前に書いた以下の記事に詳細があります。
・覚醒の文化 ヒップホップ Vol.1 – アフリカ・バンバータによる1973年11月12日のヒップホップ宣言
ニューヨークのストリートギャング団のボスだったケヴィン・ドノバン氏(当時十代)が、「文化としての」ヒップホップの創始者となるまでを書いています。
1973年11月12日に以下の宣言をニューヨークでします。
「私たちアフロ・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)はこれからアメリカで新しい生活スタイルとカルチャーを持つ。私はそのカルチャーを”ヒップホップ”(Hip Hop)と呼ぶことにした。我々黒人は意識改革をしなければならない。暴力のエネルギーをカルチャーに向けるのだ」
以下は、2002年のドキュメンタリー映画「Scratch」で当時の様子を語るアフリカ・バンバータの姿です。
まあ、その後、ヒップホップは他の音楽ジャンル同様に商業主義に巻き込まれて現在に至るわけですけれど、このような「たった一人」でカルチャーが変わるものなんだなとは思いました。