『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972年)という映画は、二十代の始め頃に見て以来、ビデオを含めて、人生で一番数多く見ている映画なんです。コメディといえばコメディですが、1000回くらい見ても飽きないものでした。私にとっては、映画の中の映画ですねえ。
テーマは「食事会があるたびに、何も食べられない」というものです(これじゃ何の映画かわからないですが)。
Grok は、チャールズ・チャップリンの無声映画の短編作品時代のことはあまり知らないようです。モダン・タイムスなどよりはるか前の映画に最大の魅力があります。
Grok への質問:ルイス・ブニュエル監督の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』なども「不調和」の連続の映画で楽しいと思いましたし、そもそも、チャップリンの喜劇も「不調和」の連続でしたよね。日本だけではなく、アメリカやヨーロッパにも不調和が生み出す喜劇はなくなっているように感じます。
Grok の回答:
素晴らしい視点です!ルイス・ブニュエル監督の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972年)やチャールズ・チャップリンの喜劇が、フランシス・ハッチソンの「不調和の認識」に根ざしたユーモアの傑作であるというご指摘は、非常に鋭いものです。
これらの作品は、予測不可能なギャップや社会規範の崩壊を通じて、観客に知的かつ感情的な笑いを提供します。また、現代の日本だけでなく、アメリカやヨーロッパのコメディでも「不調和」が減少し、予定調和的な笑いが主流になっているという観察も興味深いです。
以下で、これらの作品がどのように不調和を体現しているか、そして現代のグローバルなコメディシーンで不調和が薄れている理由を、ハッチソンの理論を軸に分析します。
1. ハッチソンの「不調和の認識」と対象作品
ハッチソンの理論では、笑いは期待と現実のギャップ(不調和)から生まれ、知的な認識を通じて快感をもたらします。この不調和は、単なる滑稽さだけでなく、社会的・文化的規範への挑戦や、観客の前提を覆すことで、より深い笑いを誘発します。『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』とチャップリンの喜劇は、この不調和を異なる形で具現化しています。
ルイス・ブニュエル『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』
・不調和の特徴:
・シュールな展開と社会風刺:この映画は、ブルジョワ階級のディナーパーティーが次々と中断される不条理な物語を通じて、資本主義や上流階級の虚飾を皮肉る。たとえば、ディナーの席が突然舞台に変わったり、ゲストが悪夢や暴力に直面したりするシーンは、観客の「上品な社交の場」という期待を破壊し、不調和を生む。
・夢と現実の境界の曖昧さ:ブニュエルは、夢のシーケンスを現実と混ぜ合わせ、観客に「何が本当か?」という混乱を意図的に引き起こす。この不調和は、物語の論理や一貫性を期待する観客の前提を崩す。
・ハッチソンとの接続:ハッチソンの「無害な不調和」が、ブニュエルの場合は社会批判と結びつき、観客に笑いとともにブルジョワ社会の偽善を認識させる。たとえば、ディナーが中断される繰り返しは、滑稽さと同時に「なぜ彼らは食事ができないのか?」という知的な問いを投げかける。
・魅力:ブニュエルの不調和は、単なる笑いを超えて、観客の価値観や社会構造への疑問を刺激する。この挑戦的なユーモアは、予定調和的なコメディでは得られない深い満足感を提供する。
チャールズ・チャップリン(例:『モダン・タイムス』や『キッド』)
・不調和の特徴:
・身体的・社会的ギャップ:チャップリンの「トランプ(放浪者)」キャラクターは、貧困や社会の疎外と、彼の優雅な仕草や楽観主義のギャップで笑いを誘う。『モダン・タイムス』(1936年)では、機械化社会の無機質な労働と、チャップリンの人間らしい失敗や反抗が不調和を生む(例:ベルトコンベアでのコミカルな混乱)。
・悲喜劇の融合:チャップリンの喜劇は、笑いと悲しみの不調和を巧みに組み合わせる。『キッド』(1921年)では、貧しいトランプが孤児を育てる姿が、滑稽さと感動のギャップで観客の心を揺さぶる。
・ハッチソンとの接続:チャップリンの不調和は、ハッチソンの「期待と現実のギャップ」を視覚的・感情的に具現化。観客は、トランプの不器用な行動や社会とのズレに笑いつつ、その背後の人間性や社会問題に気付く。この知的な認識が、笑いを深くする。
・魅力:チャップリンのユーモアは、単なるギャグを超え、階級や資本主義への批判を織り交ぜた普遍性を持つ。不調和が、視覚的な喜劇と社会的なメッセージの両方で機能する。
2. 現代のアメリカ・ヨーロッパのコメディで不調和が減少した理由
ご指摘の通り、現代の日本だけでなく、アメリカやヨーロッパのコメディでも、不調和に基づく挑戦的なユーモアが減少し、予定調和的な笑いが主流になっている傾向があります。その要因を以下に分析します。
商業化と大衆化
・ハリウッドのコメディ映画:現代のアメリカのコメディ映画(例:アダム・サンドラーやウィル・フェレルの作品)は、幅広い観客を対象に「安全でわかりやすい」笑いを重視する。たとえば、『ハングオーバー!』や『ピッチ・パーフェクト』は、予測可能なプロットやステレオタイプなキャラに依存し、不調和よりも「共感」や「親しみやすさ」を優先。ブニュエルやチャップリンのような社会批判や不条理は希薄。
・テレビとストリーミング:NetflixやHBOのコメディ(例:『ザ・オフィス』や『ブルックリン・ナイン-ナイン』)は、キャラクターの掛け合いや日常的なユーモアに重点を置き、視聴者に安心感を提供。モンティ・パイソンのような不条理や、ブニュエルのような実験性は、商業的なリスクを避けるため敬遠される。
・SNSとミーム文化:TikTokやYouTubeでの短編コメディは、短時間で即座に笑いを誘うため、複雑な不調和よりも単純なギャグや繰り返し(例:バイラルなダンスやミーム)が主流。観客は「驚き」よりも「即時の共感」を求める。
文化的・社会的制約
・ポリティカル・コレクトネス(PC):アメリカやヨーロッパでは、ポリティカル・コレクトネスの影響で、過激な社会風刺やタブーに挑戦する不調和が制限されている。たとえば、1970年代のモンティ・パイソンの宗教や階級を嘲笑うスケッチは、現代では「不適切」とみなされるリスクがある。
・視聴者の期待:現代の観客は、ストレス解消や気軽な娯楽を求めてコメディを消費する傾向があり、ブニュエルのような「困惑させる」不調和や、チャップリンのような「悲劇と笑いの融合」は、感情的な負荷が高いと見なされ避けられる。
・グローバル化の影響:世界的な配信プラットフォームでは、文化的背景が異なる視聴者に訴求するため、普遍的で単純なユーモア(例:スラップスティックやロマコメ)が好まれる。不調和が文化特有の文脈や深い解釈を要求する場合、グローバル市場での受け入れが難しくなる。
メディア構造の変化
・フォーマットの標準化:アメリカのシットコムやスタンダップコメディ、ヨーロッパのスケッチ番組は、決まった時間枠や構成(例:30分のエピソード、5分のスタンダップ)に収まるよう設計され、不調和を制御。チャップリンのサイレント映画やブニュエルの非線形な物語のような自由度は減っている。
・即時性の文化:SNSやストリーミングの時代では、視聴者の注意力が短く、複雑な不調和を構築する余裕が少ない。モンティ・パイソンのような「徐々に不条理が積み重なる」スケッチは、即時的な笑いを求める現代では受けにくい。
(略)
4. 日本との共通点と相違点
日本、米国、ヨーロッパの現代コメディで不調和が減少する背景には、共通の要因(商業化、即時性、コンプライアンス)がありますが、文化的違いも影響しています:
・日本:集団主義や「場の空気」を重視する文化が、共感や安心感を優先し、不調和を抑制。ビートたけしのような過激なユーモアは、現代のテレビではコンプライアンスにより制限される。
・アメリカ:個人主義や多様性を重視するが、ポリティカル・コレクトネスが不調和を制限。チャップリンのような社会批判は、現代では「政治的すぎる」と敬遠される場合も。
・ヨーロッパ:英国やフランスでは、風刺や不条理の伝統が残るが、グローバル市場や主流メディアでは、ブニュエルのような実験性はニッチな領域に追いやられる。
5. 結論
ブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』やチャップリンの喜劇は、ハッチソンの「不調和の認識」を体現し、予測不可能性や社会批判を通じて、知的で挑戦的な笑いを提供しました。これに対し、現代の日本、米国、ヨーロッパの主流コメディは、商業化、コンプライアンス、即時性の文化により、予定調和的なユーモアが支配的です。
しかし、インディペンデントな映画やコメディ(エリック・アンドレ、ランティモス、地下ライブなど)では、不調和が生きており、ブニュエルやチャップリンの精神が継承されています。この不調和の減少は、現代社会の「安全で即時的な娯楽」を求める傾向を反映しますが、観客が再び「驚き」や「思考」を求める動き(例:実験的コメディの復興)も見られます。