「二十代ソング」カテゴリーアーカイブ

二十代によく聴いていた曲(26) – ハナタラシ – Cock E.S.P (1985年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

Hanatarash – Cock E.S.P (1985)

東京・都立家政のライブハウスにて

音楽の話も、結局、このあたりに行き着いてしまうのですが…。

このハナタラシというのは、山塚アイさんという方による、基本的には一人ユニットで、まあ根本はノイズですね。

どんなものだったかというのは、Wikipedia の以下の説明で十分だと思います。

> ノイズを基調とし、破壊・暴力・暴言をさらけ出す音楽性であった。音楽そのものよりも、観客やスタッフを危険に晒すような犯罪と紙一重の暴力的なライヴパフォーマンスが業界関係者から悪評を買ったことにより演奏できる場所がなくなり、1988年頃活動停止。

その活動を紹介していた YouTube の動画などもあります。

しかしまあ、その過激(だとされていた)活動はともかくとして、私は、この人の音楽というより、生き方を知って「再生」したことがあり、そういう意味では恩人なんですね。

22歳の頃だったか、私はパニック障害が、だんだんひどくなっていてですね。

ベンゾジアゼピンを飲み始める前で、酒とか飲んで凌いでいたんですけれど、そこはかとなく「もうだめポ」感も漂っていた時期でした。

そういうある日、当時在籍していた学校の表現団体の部室に、なんかの音楽のミニコミが置いてあったんです。そこで、ハナタラシが特集されていたんですね。

そこにはまあ、Wikipedia にも書かれているような以下のようなこと(ネタもあったと思いますが)が書かれていてですね。

(ハナタラシ – Wikipedia より)

・ユンボでライヴハウスの壁を壊しながら登場する。

・大量の板ガラスを客席やフロアへ投げつける(動画

・大量のドラム缶をステージの上で転がし、殴りつけ、ディスクグラインダーで火花を散らした挙句客席に投げ込む。

・鎖の付いた鉄球を振り回す。

・ガソリンを床にぶちまけ、火炎瓶を投げ込もうとする。

 

この人が、おおむね私と同じような年齢だと知り、「こんなに頑張っている人もいるんだなあ」と感じまして(感動の対象としては間違ってはいるのですが)、

「オレもパニック障害ごときでメソメソしている場合ではない」

と思った次第です。

その年、私は、ジローさんという人と出会い、翌年から表現活動を始めます。

もちろん、ハナタラシみたいな暴力的なことをしたいというわけではなく、「私が元気をもらったように、みんなにも元気を与えたい」(何かがズレてきてる…)という感じだったでしょうか。

そのミニコミを読んだ後に、レコードを探しに行って、東京のお茶の水で以下のアルバムを見つけたんです。


Discogs

今回貼らせていただくのは、このアルバムのラストの曲で、ノイズばかりのこのアルバムの中で、唯一「曲っぽい」ものです。

ビデオそのものは、十数年前に私が作ったもので、暇な数日があったので、部屋に閉じこもって作ったものです。リスペクトの一環ですね。

でも、結構しゃれているというのか、コンセプチュアルというのか、たとえば、このアルバムの曲には「すべて Cock という単語が入っている」ということがあったりします。以下がこのアルバムのトラックリストです。

Ultra Cocker
Power Cock
Domination In Spunked Cock
Megaton Cock
Cock Combat
Cock Victory
Cock Rising And Hunging Cunt
Cock E.S.P

 

その後、私が 23歳くらいになっていましたか、英国のサイキックTV というバンドの前座で、「ハナタラシが出る」という話を聞きまして、やはりハナタラシが好きだった大学生の女の子と行ったのですが、会場で、突然以下の場内放送が入ったんです

「本日出演予定だったハナタラシは、会場にダイナマイトを持ち込んだことが判明し、出演停止とさせていただきます」

東京の中野公会堂という、わりと大きなホールでした。

ハナタラシを目当てに来ていた人たちも多かったらしく、あちこちで、「マジかよ!」という声が響きました。

Wikipedia にはその顛末が以下のように書かれています。

> サイキックTV来日の際のフロントアクトに選ばれるが、ライヴ当日会場にダイナマイトを持ち込み、ハナタラシの出演は中止となる。その時、それに激怒したサイキックTVのリーダー、ジェネシス・P・オリッジは山塚に「お前なんかに音楽をやる資格はない」、「いい加減にしろ」、「音楽をやめて真人間になれ」と説教した。

しかし、私は今も「本当かなあ」と思っています。

実際、私は、会場の外でダフ屋をやっていた山塚アイさんを見ていますし(苦笑)。

私 「あんた、何やってんですか」
彼 「いやまあ」

その時の公演のチラシをアップされている方がいました。

山塚アイさんは、現実とネタとの境目が曖昧な方のようにも思われますが、それでも私には救世主でした。

私自身は何も表現では残せなかったですけれど、ハナタラシは私という一人を救ってくれたという意味で今でも残る存在です。




二十代によく聴いていた曲(25) – YBO2 – ドグラ・マグラ (1986年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

YBO2 – Doglamagla (1986)

知り合いの方との交流の中で「結婚式の花嫁登場の時に北村昌士さんの曲を使いました」という言葉を最近聞きました。

むかしからのお知り合いではなく、ここ 10年くらいのお知り合いの方ですが、

「どんな曲の選択してんですか」

と思わず言いつつも、突然、「そういえば、20代の時によく聴いていたなあ」と思い出したのです。

北村昌士さんというのは、YBO2 (イボイボ)というバンドの主催者で、そして、当時のひとつのジャンルというのか何というのか、カテゴリーの著名人でもありました。

ある程度のところは、YBO2 – Wikipedia などにあります。

私が最初に聴いた、その YBO2 の最初のシングルが、以下の「ドグラ・マグラ」でした。私はそれまで知らないバンドだったんですが、こんな鮮烈なジャケットだと普通買いますよねえ。

その後、なんだかんだと、20代を通じて、1989年にメジャーデビューしたアルバムあたりまで YBO2 はよく聴いていました。このアルバムの一種叙情的なラウンド・ダンスという曲も好きでした。

YBO2 の主催者だった北村昌士さんは、49歳で亡くなってしまいますが (2006年)、今もいろいろな曲を思い出します。

ちなみに、このドグラマグラというのは、小説家の夢野久作さんの 1935年の小説『ドグラマグラ』からのものだと思いますが、Wikipedia を読んでみますと、話全体はアレですが、記憶を喪失した主人公に、精神医学者が残した文書を渡すということが書かれていまして、そこには、「5つのこと」が書かれているとあり、そのうちの 4つには以下のように書かれてありました。

ドグラ・マグラの概説より

・1つめは、現代のおそろしい精神病者の扱いと文明を批判した「キチガイ地獄外道祭文」

・2つめは、精神病者の新しい治療場を構想した「地球表面は狂人の一大解放治療場」

・3つめは、脳髄は全身全細胞の情報交換所にすぎないとし、脳髄崇拝を批判した「脳髄は物を考える処に非ず」

・4つめは、胎児は体内にいる10か月のあいだに生物進化を反復しその夢を見ていると述べる「胎児の夢」

3つめと 4つめは、今だと理解できます。

人間は脳ですべてのことを考えているのではなく (In Deep の参考記事)、また、胎児は、胎内で生物進化のすべてを経験します (In Deep の参考記事)。

そういえば、上にリンクした二つ目の記事には、三木成夫さんの『胎児の世界』という本から抜粋していますが、ここに、ドグラ・マグラの作者である夢野久作さんのことが出てきます。

抜粋して締めさせていただきます。


三木成夫『胎児の世界』 胎児の世界 – 胎児の夢より

昭和の奇筆、夢野久作は、この「胎児の世界」と「夢の世界」のあいだに「細胞記憶」というひとつのかけ橋をわたす。かれはこう述べる。

「いかなる賢人、または偉人といえども、細胞の偉大な霊能のまえには無力同然……太陽の前の星のごとく拝跪しなければならない……人間の形に統一された細胞の大集団の能力は、その何十兆分の一に当る一細胞の能力の、そのまた何十兆分の一にも相当しない……」

夢野久作は、このような細胞記憶の窓から、まず「 胎児」の世界をそのように眺める。

「何が胎児をそうさせたのか?」

夢野久作のこの問いかけに答えるもの—それは、卵細胞のもつ地球誌的な生命記憶をおいてほかにない。かれは結論する。—「卵細胞はすべてを知っている」と。

この記憶はつねに秘密の暗号として極地の磁気テープに打ち込まれ、細胞分裂によって倍数にふえていく一つ一つの細胞に完璧なかたちで伝授され、ついには六十兆ともいわれる全身の細胞にあまねく行きわたるのである。




二十代によく聴いていた曲(24) – M / ポップ・ミュージック(1979年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

M – Pop Muzik (1979)

少し前に、デヴィッド・ボウイさんのボーイズ・キープ・シンギングという曲を取りあげたことがあります。

当時、高校2年くらいだった私が北海道のクソ田舎で(クソはつけなくていいから)、深夜に、全日本プロレスの後に放映されていた音楽番組を見ていたことを書いたのですが、このM(エム)という、どこかぞんざいな名称の音楽ユニットの曲を聴いたのも、その番組でした。

最初に音楽を貼っておきますと、以下のものです。

たとえば、テクノポップとかシンセポップとか、いろいろなカテゴライズはありましたけれど、そういう中で、「ヒットチャート全米1位」とか、そういうのって、あまりないと思うんですよ。

日本でなら、YMO とか、プラスチックスとか有名なユニットはたくさんありましたけれど、ヒットチャートとは基本的には関係なかったのですけれど、このMのポップ・ミュージックという曲は、英語版の Wikipedia を見ますと、ヒットチャートで、全米(ビルボード) 1位と全英シングルチャートで 2位を記録している曲なんですね。

だから、北海道のクソ田舎で(だから、クソは要らないから)高校生の私がテレビで偶然見ることができたのだと思います。

なのに、今では驚くほど、この歌の話題が出ることがないなあ、と。

何となく忘れ去られたヒット曲になってしまっている。

実は、その 16歳だか 17歳の時に、この音楽を聴いて、

「ああ、なんかこういう曲を作ってみたい」

と思いまして。まあ、そんなのは作ることは出来なかったかもしれないですが、Mはちょっとした「心の師匠」なのです。

誰でも楽しめて、すぐ覚えられて、一回聴いたら忘れられないような曲。

日本だと、北島三郎さんの『与作』なんかもそうですよね(ジャンルは違いますが)。一回で覚える。

ただ、北島三郎さんのほうは、顔も一回で覚えられますが、このMに関しては、顔を覚えていないのです。

曲自体は好きで、その後もわりとよく聴いていましたけれど、歌っている人の顔が全然思い出せない。

今回、久しぶりにプロモを見ていて、「こんなだっけ?」と思った次第で、顔の印象も大事だよなあと。

そんなこともあり、「Mと北島三郎さんなら北島三郎さんの勝ちだよなあ」と改めて思いました(何だか、よくわからない話になってるじゃねえかよ)。

しかし、曲そのものは、与作より、このポップ・ミュージックが勝っていると思います。

ちなみに、このM(主催者の本名は、ロビン・スコットさんという人)は、坂本龍一さんの 3作目の『左うでの夢』というアルバムをプロデュースしていたことが書かれています。

テレックスもそうですが、40年以上前は、テクノポップをよく聴いていたなあと思い出します。




二十代によく聴いていた曲(23) – ダニエル・ダックス / イービル・ホンキー・ストンプ(1984年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

Danielle Dax – Evil Honky Stomp (1984)

22歳くらいの時のことになりますか。私は当時、学生表現団体のようなところに所属していたのですが、この頃は、もう私自身は、あまり関わっていなかった頃で、それでも、たまに稽古場とかに遊びに行くことはありました。

ある日、稽古場に行った時に、

「オカよお…」

と、その劇団の人が話かけてきたんですね。

「この脚本見てくれよ」と。

声をかけてきたのは次の公演の演出家で(その劇団は、公演ごとに脚本家と演出家をそれぞれ内部で公募するという方式でした)、「この脚本」というのは次の公演の脚本らしいのですが、劇団内のある人物が書いたもので、1、2ページだけ読んで私は「こ、これは…」と絶句しました。

私 「小学生の書き物かよ」
相手「そうなんだよ。どうしたらいい? これ」
私 「本当にこれで舞台やんの?」
相手「決まっちゃったことだし」

小学生というか…ちょっと頭のいい幼稚園児が書いた脚本のようなもので、「大学生も幼稚園児も同じような時代だな」と感嘆しましたが、そこに音楽担当の人が来て、「なあ、オカ、何とかしてくれよ」と (私はこの人と後にバンドを組みます)。

私 「音楽でどうこうできるモンじゃないよ、これは」
音楽「どんな曲使えばいいと思う?」

しかし、私はなぜか「よし」と思いました。

「だったら、徹底的に音楽だけ良くして、観た人に音楽しか頭に残らないようにしよう

と私は言いまして、その音楽担当の人とタッグを組むことにしたのです。

下の学年の人たちに、音楽にかなり詳しい人たちがいて、「何でもいいから、自分が『良い』と思うレコード持ってきてくれない?」と頼むと、何人かがいろいろと持ってきてくれました。

当時は、舞台用の音響はオープンリールというものに録音して編集していた時代で、作業場にオープンリールとターンテーブルを持ち込み、さまざまな音楽を聴き続けました。

オープンリールとは以下のようなもので、テープの編集は「ハサミで切って、セロテープみたいなので留める」という時代です。

持ってきてもらったアルバムの中に、ダニエル・ダックスという女性シンガーの『Jesus Egg That Wept』というのがあったんですね。それをかけた時に、最初の 1曲目で、

「舞台のオープニングはこれで決まり」

と、イントロを聴いた途端につぶやきました。

それが以下のイービル・ホンキー・ストンプ(邪悪なホンキーストンプ)という曲です。

私はこのアルバムを聴くまで、ダニエル・ダックスという人が誰だか知らなかったのですが、他の曲も秀作揃いでした。

どうでもいいですが、とてもおきれいな方です。

ダニエル・ダックスさん(当時)

その後も、この曲は今にいたるまで、よく聴く曲のひとつとなっています。

舞台ですか? そりゃもう、やはり音楽だけで内容を凌駕するのは難しかったようで、グダグダに進行して終わっていました。

そういえば、この作業のとき、年下の男の人で、「当時のソ連のテクノポップのレコード」を持ってきてくれた人がいて、これがもう最高に素晴らしい曲だったのですが、ロシア語だったこともあり、今もどうしても曲名を思い出すことができません。

当時のソ連の音楽は自由で素敵なものが多かったです。

ちなみに、この公演で私は後に sel23 をふたりで結成することになるジローさんと出会いました。




二十代によく聴いていた曲(22) – デヴィッド・ボウイ / ボーイズ・キープ・シンギング(1979年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

David Bowie – Boys Keep Swinging (1979)

高校2年くらいの時だったでしょうか。

当時は北海道の田舎に住んでいたのですが、テレビで日曜の夜に「海外の音楽ビデオが流れる」番組があることを知りまして、時間的には、深夜の12時くらいだったか、そのくらいでした。

そんなの(海外の音楽ビデオ)は見たことがないですし、外には熊が歩いているし(ウソつけ)、田舎の少年としては、音楽情報にふれあえる唯一といえるものでした。

当時(1970年代後半くらい)は、テレビというものは、24時間で番組を流すものではなく、おおむね 12時過ぎくらいで放映が終わりまして、その後は、いわゆる砂嵐といわれる「ザーッ」となってしまう時代でした。

音楽のプロモを流す番組があることを知ったのは、その頃、日曜日の 11時くらいでしたかね、全日本プロレスというものの放映が夜遅くにありまして。

別にプロレスに興味がある高校生ではなかったのですが、一度、偶然見たときの試合が、アブドーラ・ザ・ブッチャーという人とジャイアント馬場さんの試合でしたか。

これが禍々しいもので、馬場さんに殴られて額から出血していてですね、「へえ、プロレスってのはこんなに…」と、妙に感銘して、日曜の夜は見るようになっていったんです。

馬場さん vs ブッチャーさん

他にも、ボボ・ブラジルさんなんていう、やはり相当禍々しい方もよく出ていて。

それで、全日本プロレスを見た後、そのままにしていると、音楽番組が始まるのです。

音楽番組といっても、司会や進行役がいるわけでも何でもなく、ただ、アメリカで流行している音楽のプロモを流すだけなんですが、ある日のボボ・ブラジルさんの試合の後に見たのが、デヴィッド・ボウイの DJ という曲と、ボーイズ・キープ・シンギングという曲の二本立てでした。

それまで、つまり高校2年くらいまでの私の観念の中には、デヴィッド・ボウイさんなんてなかったのです。

「なんかオールドタイプのやつだろ」みたいな。

それが、デヴィッド・ボウイさんの DJ とボーイズ・キープ・シンギングを見て、そのプロモと、何より音楽そのものを聞いて衝撃を受けましてねえ。

「ロックは進化している」と呟いたり(エラソーかよ)。

もちろんボウイさんのかっこよさがあってのプロモではあるんですけれど、仮に姿がなくても、音楽だけで十分にかっこいい。

「オレもこうなりたい」

と思いました(その後の 40数年で達成されたことなし)

まあまあ、達成はしていないですけれど、ボウイさんも亡くなっちゃいましたしね。

デヴィッド・ボウイさんが亡くなったときには、In Deep で記事を書いたこともあります。

ダビデの星が墜ちる時、世界のカオスが始まる
 In Deep 2016年1月12日

この記事で、デヴィッド・ボウイさんのすごいところとして、以下のように書いていました。

超メジャーな存在でありつつ、かつての私のようなアングラ少年にまでにも影響を与えていたということで、影響を与えた「層」がとにかく広いのですよね。

まあ、とにかく、そのボーイズ・キープ・シンギングのプロモです。 DJ のプロモはこちらにあります。

私もイケメン同士として(大変に失礼な言い回しになってるぞ)…ああ、まあイケメン同士ではないですけれど…同じ人類として(括りが急に大雑把になるのかよ)感謝いたします。

なんだかんだと、その後もずっと、この頃のボウイさんの曲は聴いていますね。




二十代によく聴いていた曲(21) – Shampoo / ストック(1982年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

30年の年月の後で知る「義足」の奇跡

この曲自体は、P-Model の平沢進さんがプロデュースしたということで何となく手に入れたものでした。19歳の頃でしたかね。

そのレコード

まあ、それはいいんです。

その後、10年、20年、あるいは 30年と Shampoo を思い出すことなく過ごしていたのですけれど、このユニットとは関係なく、ずいぶん前のある日、NHK 教育のハートネットTV という福祉系の番組を見ていたんですよ。

ハートネットTV は、次第に議題が LGBT とか、そっちのほうに向かい始めてからまったく見なくなってしまいましたが、むかしはよく見ていたんです。

今、NHK の該当ページを見ましたら、2014年とありますので、11年前ですね。ハートネットTV のある放送を見たのですよ。ページを見ますと、

「失うことで見つけた“幸せ” ―義足のヴィーナスたち―」

という放送でした。

義肢装具士の臼井 二美男さんという方の特集で、Wikipedia などでは、パラアスリートへの義足の貢献などが書かれているのですが、この時の番組は、この「義足のヴィーナスたち」というタイトルにありますように、「女性たちへの義足」についての番組で、これが感動的な番組でしてねえ。

ずいぶん前のことですし、今では見られないようですので、詳細は忘れた部分も多いですけれど、たとえば、お若い女性で「同窓会に出るのに、ミニスカートで行きたいんです」と希望を述べる女性がいました。

確か、左の脚が根元からない状態の方だったんですけれど、義肢装具士の臼井さんは、まったく美しい義足(確か、ストッキングをはいたような状態の見かけだったと記憶しています)を作られまして、その女性は、ミニスカートで同窓会に出ることができたのです。

あと、法事かお墓参りに「和服で行きたいんです」という女性の希望も見事に叶えて、つまり、和服には草履だとか、他にもありますけれど、その女性は和服で法事に参加することができたり。

とにかく、脚を失った女性の持っている望みを最大に実現するために頑張っておられる方の姿でした。

人の希望を適切に、そして淡々と叶えてあげていらっしゃる臼井さんの仕事ぶりを見て、

「こういうのを、『仕事』というのだよなあ」

と、涙ながらに見ていたのですが、まあ、これはこれとしてのひとつの話です。

そして、これが先ほどの Shampoo と結びついてくるのです。

Shampoo は、女性二人組のユニットでしたが、そのうちのお一人の折茂昌美さんという方は、2007年に、有棘細胞がんのため、右大腿部を切断ということになったことを後に知るのです。

しかし、彼女は音楽活動をやめたわけではなく、「義足を武器に」表現活動を続けられていることを知りました。

活動再開後の折茂昌美さんの写真の一枚が以下ですね。


tumblr.com

そして、折茂昌美さんの義足の製作に関して、先ほどの義肢装具士の臼井 二美男さんが関係していたことを知るのです。

以下は、2023年8月20日の NHK 日曜美術館「アートする身体」という番組の出演者です。

そこに Shampoo の折茂昌美さんがクレジットされています。

NHK 日曜美術館「アートする身体」 出演者

小野正嗣 (作家、早稲田大学教授)
臼井二美男 (義肢装具士)
山中俊治 (デザインエンジニア)
坂本真 (山中研究室特任研究員)
村松充 (山中研究室特任助教)
須川まきこ (イラストレーター)
折茂昌美 (ミュージシャン)
辻谷朱美 (スタイリスト)

NHK

1982年から 40年かかっての、この感動のシンクロということに実際に居合わせたことに驚きました。

人の精神を助ける仕事はいろいろとあるでしょうけれど、臼井二美男さんの仕事は本当にそういう中のひとつだと実感します。

誰でもそうしたいけれど、誰にもできないことでもあります。

そんなわけで、いろいろと長くなりましたけれど、1982年の Shampoo のストックという曲です。

これはイントロが異常に長い曲で、2分50秒のうち、約 2分がイントロという曲です。

Shampoo – ストック 歌詞

縦の序列に 横の連帯
いつでも 私 エスケイプ
お手本の 壁に ワークブック
いつでもあなた アジテーター
ほんとは 私 エキストラ
ほんとは 私 カタログ
ほんとは ただの ストック
いつだって いつだって
そうなんだから Ah!

曖昧と 無意味のなれあい
いつでも 私 Sham-poo!
ほんとは 私 エキストラ
ほんとは 私 カタログ
ほんとは ただの ストック
いつだって いつだって
そうなんだから Ah!




二十代によく聴いていた曲(20) – テレックス / Pakmoväs(1979年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

Telex – Pakmoväst(1979)

このテレックスというのは、いわゆるテクノミュージックの先駆けといわれていたバンドのひとつで、ベルギーのユニットです。たとえば、Wikipedia には、

> YMO、ダフト・パンク、ジェフ・ミルズ、モービーらに影響を与え、ハウス・ミュージックの原点にもなった。

とかあるのですが、このアルバムも十代の終わりの頃にジャケ買いしたものだったと思います。

以下にジャケットが出て来ますが、「なんとかっこ悪い人たちなのだろう」と感銘して、すぐ買いました。

いろいろな「テクノ」というような言葉をつけられたバンドが出ていた中ですけれど、一種の先駆けだったようです。

でも、まあ、今でも「これこそテクノポップだよなあ」と思うこともあります。

実は、この人たちを知る前に、ベルギーのアイドル女性歌手だった「リオ (Lio)」という人の歌を、17歳くらいの時に聴いていまして。その頃に NHK FM で紹介されていたのを聴いたんです。

このリオをプロデュースしたのが、このテレックスの人たちだと後で知りました。

リオの曲はとても聴きやすくてですね。ご本人は以下のような人で、人気はあったようです。どんな人かを知ったのは、YouTube が出てきてからですが。

テレックスを最初に聴いてから、しばらくして、このリオをプロデュースしたのが、テレックスだと知りまして。

「いろんなことをやっているものだなあ」と感心した次第です。

まあ、世界最初の「わかりやすいテクノ・ポップス」の始祖として、テレックスは思い出に残ります。