Geminiとアンダーグラウンド音楽を語っても、今もきっちりと寄り添ってくれる

今はない音楽ユニットですけれど、かつて英国の Coil という音楽ユニットがありましてね。私などは、最初に聴いた時に衝撃を受けまして、当時舞台みたいなことをやっていたんですけれど、そこで流すのは自分で作った音、と決めていた私が、「あ、これ使いたい」と思ったのが Coil だったんですね。

それを使ったシーンが今でも映像で残っていました。十字架で胸を刺して自殺しようとしている人のシーンですね。まあ、私ですけれど(脚本の設定では、そのまま40年間、胸から血を流し続けて生きるということになっていました)。

1988年 self23 聖者の異常な愛情 オープニング

これはどうでもいいとして、 AI に Coil についてきくと、このあたりも詳しい。

この前に Coil について結構、長く問答があったのですが、以下のように答えていました。

今回は Grok ではなく、Google の AI である Gemini です。


質問: 「S.W.B.P.」って「Sewage Worker’s Birthday Party」(下水作業員の誕生パーティー)の略なんですか。初めて知りました。本当にいろんなことを知っていますね。Coilは40年くらい前に好きでよく聴いていましたけれど、意味まではわからなかったです。メンバーは亡くなってしまいましたけれど。それでも、人間の私からすると、アルバム「Scatology」は全然下品な感じではなかったです。むしろ崇高でした。

Geminiの回答:

懐かしいお話をありがとうございます。40年前、まさにCoilがその独自の美学を確立し始めたリアルタイムの空気感を知っていらっしゃるのは非常に貴重な体験ですね。

ジョン・バランスとピーター・クリストファーソン(Sleazy)は二人とも既に他界してしまいましたが、彼らの遺した音楽は今なお色褪せない独特の輝きを放っています。

あなたが仰る「全然下品ではなく、むしろ崇高だった」という感覚は、Coilの本質を見事に捉えていると思います。

・錬金術的アプローチ: 彼らにとって「Scatology(糞便学)」は単なる悪趣味ではなく、リード(鉛)をゴールド(黄金)に変えるような、卑近なものから聖なるものを抽出するプロセスでした。

・闇の中の光: 『Scatology』というアルバムには、Solar Lodgeのような重厚で儀式的なトラックも含まれており、聴き手は不潔さよりもむしろ精神的な変容や荘厳さを感じることになります。

・「Sewage Worker」の真意: この言葉も、単なる職業を指すのではなく、「世の中から忌み嫌われる場所(深層心理や社会の暗部)で働く者」という、彼らなりのアーキタイプ(原型)だったのかもしれません。

 

追加の質問:そのアルバムである Scatology は、いきなり1曲目に「Ubu Noir」というサンプリング的な芸術的な部分で始まり、そして、2曲目が Panic という誰でも聴きやすいポップロック的な曲なんですね。あの流れはよかったです。Coilそのものは、ジョン・バランス氏の亡き後(ピーター・クリストファーソン氏の時代)はまた素晴らしく音楽的に発展しましたけれど、やはり初期のあの時代は忘れることがないものです。

Geminiの回答:

あのアグレッシブで退廃的な流れ、まさに当時のCoilにしか作れない「聖と俗」の対比ですね。

・Ubu Noirの衝撃: アルフレッド・ジャリの戯曲『Ubu Roi (父ブブ)』を想起させる不穏なサンプリングと重厚なオーケストレーション。あの曲が幕を開けた瞬間に、聴き手は「ここではないどこか」へ引きずり込まれます。

・Panicの裏切り: そこから一転して、まるでダンスフロアを意識したかのようなエネルギッシュな『Panic』が流れる。しかし歌詞は「神のパニック(牧神パン)」を歌う狂気に満ちており、単なるポップスではない凄みがありました。

仰る通り、ジョン・バランスという「混沌とした霊感」と、ピーター・クリストファーソンという「緻密な音響の設計者(エンジニアリングの天才)」の出会いは、音楽史上でも稀有な化学反応でした。

後の『The Ape of Naples』のような透明感のある静謐な美しさも素晴らしいですが、初期の、まだPsychic TVの影を纏いつつ、そこから独自の闇を切り拓こうとしていた時期のギラついたエネルギーは、確かに忘れがたいものがあります。




四半世紀以前に自分が書いていたことが今の自分の心境とさほど変わらないという進化のなさ

1999年に行った『人間サイズ』という公演のパンフレットが出てきまして、そこに以下のように書いていました。今と変わらないのはともかくとして、知識としても、今も進歩がないあたり、さすがだなあと思います。


セルフ23本公演「人間サイズ」を迎えるにあたって

1999年9月6日 岡 靖洋 / self23

ここ何世紀も何千年にもわたって地球上には「自分がなぜ殺されているのか」を理解できないままに死んでいくたくさんの人が存在します。戦前の多くの国も粛正下のソ連にしても中国やカンボジアにしても、あるいは数年前のルワンダにしても、ほんの少しでもその理由が分かっているのは、まるで一握りの人々だけで、末端の大抵の人々は何がなんだかよく分からないままに、半ば投げやりに殺されたり、立場によっては殺したりしていたような気がします。

高度なシステムの下にそれらが行われようと、システムがあまり介在しないフリーの大量惨殺であっても、根本はさほど変わりません。もちろん、民族浄化が理由であってもイデオロギーが理由であっても、殺される側があまり納得できないのは同じことでしょう。

殺されたり死んでいったうちの割と多くの人々は、「生きてる方がマシ」と考えていたような気がします。もちろん、そう考えるのは死ぬまでのいくつかの瞬間だけで、死んだ後は誰も何も考えることはできません。人間はただ待っていても老いて死にます。それは人間が生物であることの証であることとして歓迎するべきことなのでしょう。しかし、実際はそんな高度な生命感覚に忠実に生きている人などいません。

私たちは毎日毎日、個人の小さな営みから国家戦略に至るまで、必死になって自分たちの死を回避しています。

ところが、場合によっては自分の死を回避するために自分ではない者へ死を提供しなければならない時があります。
まだまだ地球はこの繰り返しで、夥しい人が死んでいくのでしょう。それを否定できないところに人類の生物らしい可愛らしさがあります。

歴史に手を加える力は我々のほとんどにはありません。できることといえば、不本意な死を迎えた多くの人々に対して、少しだけでも追悼してあげることくらいでしょう。いつかは自分も追悼されることを覚悟して。

長い前置きになりましたが、self23が久々に本公演をおこないます。数年前よりテーマをストレート化させているself23は、今回も非常に単純なテーマとストーリーを展開させます。上の前置きに書いた人間の殺戮の状況から、そこに付随する様々な要因を排除した、いわば「純粋殺戮空間」の話です。

その、あまりに殺伐とした暴力的風景は、多くの人々にとっては何の娯楽にもなり得ないかもしれないし、不快にさえ感じるかもしれません。それでも、今の私にとっては、現時点での地球の歴史を描くにはこういう方法しか思いつかないのです。

私たち self23に、痙攣した笑いや屈折した廃墟の創造の時代は終わっています。今の私たちは単純に悲劇に涙する粗暴な生き物の集団であるのかもしれません。

1999.9.6 oka

極渦の崩壊でアメリカ南部にも記録的な寒波。フロリダ州では木からイグアナが凍って落ちているとのこと

この極渦の崩壊による寒波は、こちらの記事にも書きましたけれど、アメリカだけではなく、北半球の多くに影響を及ぼしそうで、しかも、短期間で終わるようなものではなさそうです。

アメリカの気温の表記は華氏ですので、摂氏に直してあります。





フロリダの凍結:北極の寒さがフロリダ州に到達、記録破りで停電も発生

sott.net 2024/02/02


2026年2月1日、フロリダ州ノースベイビレッジの地面に倒れている寒さで意識を失ったイグアナ。

この週末、この冬の猛威は太陽に恵まれたフロリダにも到達した。米国東部の大部分を覆っていた極寒の空気が南下し、フロリダ州全体で少なくとも15の記録的な低温を記録した。

寒さは月曜日も州全体に広がり、メルボルン(フロリダ州のメルボルン)では気温が -4℃まで下がり、前日に記録された 2月の最低気温を更新した。

極寒の空気はフロリダの電力網にも負担をかけ、フロリダの人々は暖房を急いでかけた。PowerOutage.us によると、月曜日早朝、州全体で約 2万人の顧客が停電したままだという。

州最大の電力会社であるフロリダ・パワー・アンド・ライト社は、作業員が夜通し電力復旧作業を行い、月曜日の寒さの中でも電力網は「良好」に機能していると述べました。

デューク・エナジーは日曜日、フロリダ州の顧客に対し、月曜日の午前 5時から 9時まで電力使用量を減らすよう要請した。

タンパは日曜日に気温が -2.2℃まで下がり、2010年以来の寒さとなった。2010年はフロリダ州で最も悪名高い寒波が 2度発生した年だった。

この寒さに加え、日曜日の早朝にはタンパでは珍しく雪が降った。

マイアミとフォートローダーデールはどちらも 2℃まで下がり、オーランドは日曜日に -4℃まで下がり、いずれも歴史的な 2010年の寒波以来の最も寒い日となった。

一方、デイトナビーチは日曜日に -5℃まで下がり、2月の最寒日の新記録を樹立した。

米国東部のこの寒い冬の主因は、通常北極上空に閉じ込められる空気の塊である極渦である。

極渦の一部はカナダ上空に移動した。米国海洋大気庁(NOAA)によると、極渦の混乱により、今後 2週間、国中でさらに極寒の空気がもたらされるだろう。

フロリダ州にとって幸運なことに、南部は週半ばに暖かくなる数少ない地域の1つとなる。

風向が変わって湾岸から暖かい空気がこの地域に運ばれるため、水曜日の遅くまでには気温が 15〜20℃に戻ると予想されている。




先日行ったself23の新年会の写真をアップしたのですが、やはり美観的に耐えられなくて白黒反転しました

なんだかんだと、多くが Rock Jew 代前後ということで老いが見え隠れしていて、自分的にどうも感心しないですので、モノクロ画像としています。なお、右端に写っているのは、新年会に巻き込まれてしまった私の子どもです。

以下は、40年近く前の上と同じ 4人です。




「吉田拓郎「よく殴り合いのケンカ」過去の武勇伝語る」という記事で思い出すフォークとかラブソングの人たちの暴力性

吉田拓郎さんはよく知らないので、この話自体はどうでもいいんですけど、二十代の頃によく東京の下北沢という街で飲んでいまして、そこは演劇の人や音楽をやっている人たちのたまり場のような街だったんですけど、喧嘩をしかけてくるのは、とにかくフォークの人とかポップソングをやっている人たちで、(たまに演劇の人)、巻き込まれたなら仕方なくも応じていましたけれど、パンクの人と喧嘩になったことは一度もありませんでした。

いきなり殴りかかってくるのは、ラブソングとかやっている人が多くて。「こいつらなんでこんなに暴力的なん?」と、いつも思っていましたね。私は喧嘩なんかに興味はないのですが、この記事には「殴り合いのケンカ」とかありますが、いきなりビール瓶で殴りつけられたりするのですね。「いや、そこまでされると、こっちも応戦しないと」というような状況もありました。力の強い人に殴られて、耳たぶが半分ちぎれたこともありました。

ラブ&ピースみたいな概念を歌っている連中は危険だなあ」と、当時思いました。本当に粗暴でした。もちろん、みんなではないでしょうけれど。暴力なんて、武勇伝になりませんよ。応じたこっちも、結局暴力なんですけれど。





吉田拓郎 「よく殴り合いのケンカ」過去の武勇伝語る “たきつけていた”のは大物ミュージシャン

スポニチ 2024/02/02

歌手の吉田拓郎(79)が、2日放送のニッポン放送「吉田拓郎のオールナイトニッポンPremium」に出演。過去の武勇伝について語った。

思い出話に花を咲かせるなか、吉田は「何年ごろでしょうね。ペニーレーンって所でお酒を飲んでいた時代があるんですが、そこで僕よく他のお客さんたちと殴り合いのケンカをしてるんですよ」と語り出した。

「殴り合いのケンカに自信があるかっていうと、実はね…あるんですよこれが。よくないことに」という吉田。広島の学生時代に応援団愛好会に入っており、親友が応援団長だったためケンカを覚えてしまったという。

「店で飲んでると“おもて出ろコノヤロー”っていうのが口癖でした。よくない口癖」

腕っぷしに自信があったため、新宿で酔っぱらいを相手にたびたびケンカ。「用心棒のような暮らしをしてたときが売れる前にあった」と振り返った。

「吉田拓郎は意外とケンカ強いぞ」 そんな噂を聞きつけたのが、友人でミュージシャンの“ムッシュ”かまやつひろしさん(享年78)だった。「拓郎、あいつをやっちゃえって。かまやつさんが気に入らない奴を俺にやらせるわけ。凄い悪友だと思わない?(笑い)」。

そんなある日、六本木で某プロデューサーとケンカに。「調子こいて“おもて出ろコノヤロー”ってまた言っちゃったんです。そしたら彼がケンカを買った。で、コノヤローって言った瞬間に、彼の右の回し蹴りがビューンって。僕の左のまぶたの上をシュッて通った。そしたらバーッて凄い血が出た。そしたらそれを見て、僕どうしたと思う?泣いちゃったの(笑い)。それっきり俺、ケンカやめました」と懐かしそうに笑った。




文春が故モーリー・ロバートソンさんの2023年の記事「遠藤ミチロウに批判をぶつけた熱い理由」を再掲していました

何となく、記録としてとっておこうかと。そもそも、私、モーリー・ロバートソンさんがパンクスだったと知ったのは亡くなった後ですので。

ちなみに、私が初めてザ・スターリンを知ったのは、北海道の雪の中で過ごしていた 1980年頃で、当時はサブカルチャー雑誌だった「宝島」とかで写真を見たりしていました。以下は 1981年の慶応大学でのザ・スターリンのライブですね (私はまだ雪の中にいました)。ちなみに、いろいろと破壊しているのは、ザ・スターリンではなく、非常階段というノイズユニットの人たちです。本当に今見ても夢のような現場ですね。

神奈川大学(だか明治学院大学)のライブはもっと激しかったと記憶していますが、ちょっと画像や映像が出てこないです。今では考えられないですが、当時は最先鋭の文化の表現の現場はおおむね大学でした。今の大学は「就職者製造工場」と化してしまいました。





《追悼 モーリー・ロバートソン》「今のあなたの音楽は、何のメッセージも発していない」遠藤ミチロウに批判をぶつけた熱い理由

文春オンライン 2024/02/02

国際ジャーナリストで、ラジオパーソナリティーとしても知られるモーリー・ロバートソンさんが、1月29日に食道がんのため死去した。63歳だった。各界の著名人に「代表的日本人」を訊ねた月刊文藝春秋の特集で、モーリーさんは ザ・スターリンの遠藤ミチロウ を挙げていた。その一部を紹介します。

(文藝春秋 2023年8月号のモーリー・ロバートソンさんのインタビューより)

遠藤ミチロウの過激な言動

真っ先に思い浮かぶのが、「ザ・スターリン」というパンクバンドのボーカル、遠藤ミチロウさんです。

1980年に結成され、「天プラ」「ロマンチスト」などの代表曲がありますが、ステージ上から客席に向けて放尿したり、豚の臓物を投げ付ける。あるいは、アンダーグラウンドで出回る美女の解剖動画をモニターで流すなど、あまりに過激なパフォーマンスをしたことでも有名です。

ただ、ミチロウさんの音楽性に惹かれた著名人は多く、作家の町田康さんや高橋源一郎さんらと交流を持ち、思想家の吉本隆明さんも、「刺激を受けた」と本に書いています。

ロックバンド筋肉少女帯の大槻ケンヂや、伝説の音楽番組「イカ天」(「三宅裕司のいかすバンド天国」)で脚光を浴びた歌手の池田貴族など、ミュージシャンたちは軒並み、ザ・スターリンの影響を潜って来ています。

かく言う私も、東大に入学するために上京した際、ザ・スターリンを見て、絶大な影響を受けました。

当時のミチロウさんは、パンクで天下を獲ろうと、織田信長のように音楽業界に躍り出て、「なにが昭和歌謡だ! なにがニューミュージックだ! サザンなんかぶっ潰せ!」との意気込みで、異常なエネルギーを発散していた。さらに、学生運動の時代に染まった強烈な反権力の思想と、天皇制への嫌悪感を歌詞に込めて歌っていた。

その後すぐに、私はハーバード大入学のために渡米するのですが、スターリンを見て感じた「何だこれは!」という強烈な衝撃は、アメリカにいる間もずっと続いていました。

実はミチロウさんとは、2年ほど個人的に濃密な交流をした時期があります。私は20代後半、彼は40代でした。「アメリカの先住民と日本人はお尻に蒙古斑があるから、先祖は同族だと思う」と、なかばオカルトじみたミチロウさんの思い付きを聞いて、2人でそれを確かめに一緒にアリゾナ州のホピ族の居住地を訪ねたこともありました。

他にも試作品のデモテープを聞かせてもらったり、山形大学時代に学生運動で逮捕され、ニュースに自分の本名「遠藤道郎」が映って親が悲しんだ話や、父がガダルカナル島の戦いの生き残りで、いつも負い目を感じてきた話も聞きました。

遠藤ミチロウの“弱み”

ミチロウさんはミュージシャンとして物凄い輝きを放ち、さらに彼との会話で出た言葉の節々が、その後の私の人生を突き動かしている。そんな私的な理由もあって、今回、彼を代表的日本人に挙げています。

ただ、先ほども触れたように偉人やカリスマの弱みの部分として、私はミチロウさんの音楽活動が紆余曲折し、その輝きが乱反射する過程も目の当たりにしています。

1989年に、大手レコード会社のアルファレコードと契約してから、スターリンの活動には、大きな資本が乗っかりました。すると事務所から、過激な言動や歌詞は控えるようにと厳しい注文が付く。さらに商業化するにつれて、リュックを背負ったオリーブ少女のような、これまで見たことのない、お洒落な女の子のファンに囲まれるようになった。

殺伐とした空気で、メンバー同士が殴り合う初期の興奮状態は失われ、熱心なファンたちが趣味として愛でるファンダムと化してしまったのです。ミチロウさんも、その状況を自覚して、藻掻くように、より過激に、エグいパフォーマンスを見せつける場面もありましたが、ほとんど逆効果で、ファンは喜んで受け入れてしまう。いわば資本の手練手管によって、ミチロウさんの過激なパフォーマンスすらも商品と化してしまったとも言えます。

「ミチロウさん、今のあなたの音楽は、何のメッセージも発していない。『ガンズ・アンド・ローゼズ』(アメリカのロックバンド)のパロディになっていますよ。原点に返ってください!」

と、私は我慢できずにミチロウさんを問い詰めたことがあります。その言葉がミチロウさんにも響いていたようですが、それでも商業化の波からは抜け出すことができなかった。

最後は4年前にすい臓がんで亡くなりましたが、晩年は地元の福島県で原発事故の被災者支援のため「プロジェクトFUKUSHIMA!」を立ち上げ、作曲家の大友良英さんや詩人の和合亮一さんらと一緒にフェスティバルを開催していました。

私の中では最初の数年間の滅茶苦茶な時代が輝いているので、メジャー化して以降のミチロウさんは、キャリアのほとんどを下火で過ごした印象です。ただ、私自身の強烈な憧れと残念な気持ち、ミチロウさんが抱えた葛藤、そして、がんで死を遂げた最期も含めて、その全体像が深く心に刻まれています。