懐かしの下北沢「珉亭」の話を孤独のグルメの人の談話で読み

 

(※) 孤独のグルメの松重豊さんって、私と同じ年齢だと知りました。大学も同じなんですね。ちなみに最初に表現を一緒に始めたジローさんという人は、松重さんと同じ文学部演劇学科でした。

> 石井聡亙監督の作品に影響され

というのもわりと似てます。どの映画かは書いていないですが、時期的には、「狂い咲きサンダーロード」か「爆裂都市」かのどちらかと思われます。

それはともかく、ここに出てくる下北沢の「珉亭」という中華屋さんにはたまに行きました。この中華屋さんの斜め向かいあるトラブルピーチというロックバー(汚い)によく行っていて、その流れでたまに行っていたんです。

毎週のように下北沢で朝まで飲んでいた三十数年前の話ですね。


【復刻】松重豊が甲本ヒロトと中華料理店でバイト生活「ヒロトがいてくれたおかげで支えられた」

日刊スポーツ 2022/06/21

俳優松重豊(59)が2013年の日刊スポーツ紙面「日曜日のヒーロー」で俳優を断念した下積み時代や、今も支えになっている30年来の意外な親友、愛する家族について語った。当時の日刊スポーツの記事を、復刻版でお届けする。

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身長188センチ。一見してこわもての雰囲気が漂う。ところが今は、ルックスから想像できないコミカルな役や、生真面目で善人の役で人気を集めている。オカマ、同僚思いの医師、厳格でいてどこかユーモアを感じさせる父親、仕事の合間の外食を楽しみにする雑貨輸入商。「いろんな役で呼んでいただけていて、映画、ドラマ、舞台などバランス良くできているなと思っています」。

昨年は、連続ドラマ6本、映画3本、舞台1本に出演した。今年もその勢いは続いている。CMも現在3本に出演中だ。テレビ東京系深夜ドラマ「孤独のグルメ」で見せた食事シーンの笑顔が印象的で、料理のおいしさがストレートに伝わってきた。よほどインパクトがあったのか、味の素の調味料「Cook Do」のCMの出演依頼も舞い込んだ。

同番組の新シリーズ(シーズン3)が10日から始まる。わずか約1年半でシーズン3まで放送される人気ドラマとなった。異例の放送にも気負いはない。「もう3回目まで来ましたね。お客さんも、そろそろ離れていくころだと思っていますんで」。今の状況を冷静に受け止めている。「おいしそう」と評価を受けた表情についても「今まで訓練してきたたまものっていうことでもなく、たまたま、そういう顔だったということなんです。だから、ありがとうございましたって言うしかないですね」。

そっけなく感じるが、それは「人気」とは別に、うれしく感じていることがあるからだ。若手のころ、映画監督から直接出演依頼を受けても、無名だったからなのか、「プロデューサーやスポンサーを納得させることができなかった」と言われて出演できないことがあった。「名前が売れてきて、スポンサーを納得させることができるようになったと言って(監督たちが)僕を呼んでくれることがうれしくて。それで皆さんにご恩返しできるってことがうれしい限りなんです」。ようやく笑顔を見せた。

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高校時代、映画に強い興味を抱いた。石井聡亙監督の作品に影響され、文化祭で自主映画を撮った。「一生楽しめる仕事かも知れないと、何となく映画に憧れて上京してきちゃったんです」。82年に明治大学文学部演劇学科に入学。映画監督を夢見ていた。そんな時に出会ったのが、後にザ・ブルーハーツで一世を風靡(ふうび)し、現在はザ・クロマニヨンズのボーカルを務める甲本ヒロト(50)だった。

自主映画を撮ろうとしていた時、友人から主役候補として紹介された。ミュージシャンを目指していた。映画を撮るには、資金が必要だった。アルバイトをしなければならなかった。

「友人がバイトしていた下北沢の中華料理店『みん※(※は王ヘンに民)亭』って店にヒロトと同じ日からバイトを始めようって話になりましてね」。

2人は店でラーメンを運んだり、ギョーザの皮巻きなどをしていた。バイト代は日当で受け取った。「店が終わると、銭湯に行って、店に戻ってビール飲んで。その後は街へ繰り出して、飲みに行くという生活をしていました」。

映画は撮り始めたが、資金難で頓挫してしまった。田舎から出てきた青年が、ロックミュージシャンを目指していく話だった。未完成の8ミリフィルムは今も自宅に保管してある。

「お互い50歳になっても、彼はバンドマンで、僕は役者をやっている。やっていることは何も変わってないんだけど、一緒にやってきたと思っている。ヒロトがあの体形でロックをやり続けているので僕も負けたくない。だからデブにはなりたくない。彼に負けたくない。そういう意味でヒロトがいてくれたおかげで、随分と支えられたなと思います」。

今でも交流は続いている。

20代でロックスターに上り詰める甲本の姿を見ながら、自分は長い下積み時代を過ごした。大学卒業後、蜷川幸雄主宰の劇団「蜷川スタジオ」に入団したが、26歳で退団し、テント職人に身を転じた。

「当時、プロの俳優として、理想ばかりじゃなく、自分にうそをつかなきゃいけないことを潔しとしない20代の僕がいて、ちょっと生意気にも、ドロップアウトしちゃったんです」。

納得のいかない役を簡単に受け入れることができなかったという。

それでも、熱心に引き戻そうとしてくれる先輩もいた。俳優勝村政信(49)から「いいかげんにしろ」と言われ、正社員になっていた会社の有給休暇を使って1カ月だけ舞台に立った。同時期に結婚もした。舞台後、職人の仕事に戻ったが、転落事故でけがをしてしまい退職した。再び俳優の道を進むことを決意した。

「26歳くらいで役者をやめて卑劣にもリセットした。人生で、1回しかできないリセットボタンを押してしまった」。後ろめたさを抱えたままでは前に進めない。「もう逃げることはできない。そう思って、そこからは腰を据えてずっとやっています」。

決意はしたが、生活は厳しかった。30代になって、子供もできた。俳優とアルバイトの掛け持ちの日々が続いた。

「その頃は、石屋で働いてました。留学生と一緒に砂を運んでいたのですが、とにかくきつくて。留学生が途中で帰ってしまって、1人でやってね。家に帰って女房に『明日からバイトしないでみるわ』って。(所属事務所の)社長に『もうバイトはしない』って言ったんです」。

収入が減った分、俳優業で頑張るしかない。精力的に舞台に出演した。「年に8本くらいやって、それを3年くらい続けました。それで最低限の生活できるくらいでしたね。昼間は稽古しながら、夜は本番という生活で、血尿を出しながらやっていた時期がありました」。

転機は34歳で訪れた。NHK大河ドラマ「毛利元就」に出演した。毛利3兄弟の次男吉川元春役だった。視聴者にはまったくなじみのない顔だった。「初めての本格的なテレビの仕事でした。自分でも、大抜てきだったと思います。NHKが、なぜか何だか知らない舞台をやっている男を引っ張って冒険してくれて。そこからですね」。

反響はあった。ドラマの仕事が舞い込むようになった。「何となく、30代後半から映画とテレビと舞台という三つどもえで仕事ができるようになった。最初のころに仕事がたくさんあって、途中から減っていくっていう方がつらいですし、少しずつ増えていく方が幸せですね。でもまだテレビドラマに関しては、ちゃんと出られるようになったのは、ここ10年くらいなんですよ」。

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大学2年の長女と高校3年の長男がいる。妻とは19歳のころから交際して結婚した。家族との絆は強い。

「女房とは何も変わらないです。ただ、芝居の話、映画の話、テレビの話をしますね。娘には、僕が19歳のころに見た寺山修司さんの芝居で、(同じ演目で)僕が出演しているものを見せたんです。僕らも、だんだんバトンを次世代に渡す時期が来ていて、娘や息子に伝え、次の何かに向かって欲しいと思う。娘は、美術の世界を目指しているようです。息子は作り手の方に回りたいようです」。

家族は、俳優である自分にとって得るものがある存在だという。

「感じ方は全然違うし、面白いと思う作品も違う。僕からも、彼らからも、受け取るものもある。良い刺激を与え合いながら家族で会話をしています」。

演じてきた役柄の印象もあって、生活感がなく、家族との姿がなかなか思い浮かばないが、実は相当な家族思いの父親のようだ。

「近所では、有名な仲の良い家族に思われていますね。子供たちとも、よくしゃべる。最近は子供たちが忙しいので、あいつらのスケジュールに合わせて飯食いに行ったりする。家族そろったら飯食いに行きますね。おいしいものをおいしく食べられる相手と、おいしい笑顔で食べています」。

家族だんらんをこよなく愛する。最近テレビで見せるようになった笑顔は、きっと素の笑顔なのだろう。