四半世紀以前に自分が書いていたことが今の自分の心境とさほど変わらないという進化のなさ

1999年に行った『人間サイズ』という公演のパンフレットが出てきまして、そこに以下のように書いていました。今と変わらないのはともかくとして、知識としても、今も進歩がないあたり、さすがだなあと思います。


セルフ23本公演「人間サイズ」を迎えるにあたって

1999年9月6日 岡 靖洋 / self23

ここ何世紀も何千年にもわたって地球上には「自分がなぜ殺されているのか」を理解できないままに死んでいくたくさんの人が存在します。戦前の多くの国も粛正下のソ連にしても中国やカンボジアにしても、あるいは数年前のルワンダにしても、ほんの少しでもその理由が分かっているのは、まるで一握りの人々だけで、末端の大抵の人々は何がなんだかよく分からないままに、半ば投げやりに殺されたり、立場によっては殺したりしていたような気がします。

高度なシステムの下にそれらが行われようと、システムがあまり介在しないフリーの大量惨殺であっても、根本はさほど変わりません。もちろん、民族浄化が理由であってもイデオロギーが理由であっても、殺される側があまり納得できないのは同じことでしょう。

殺されたり死んでいったうちの割と多くの人々は、「生きてる方がマシ」と考えていたような気がします。もちろん、そう考えるのは死ぬまでのいくつかの瞬間だけで、死んだ後は誰も何も考えることはできません。人間はただ待っていても老いて死にます。それは人間が生物であることの証であることとして歓迎するべきことなのでしょう。しかし、実際はそんな高度な生命感覚に忠実に生きている人などいません。

私たちは毎日毎日、個人の小さな営みから国家戦略に至るまで、必死になって自分たちの死を回避しています。

ところが、場合によっては自分の死を回避するために自分ではない者へ死を提供しなければならない時があります。
まだまだ地球はこの繰り返しで、夥しい人が死んでいくのでしょう。それを否定できないところに人類の生物らしい可愛らしさがあります。

歴史に手を加える力は我々のほとんどにはありません。できることといえば、不本意な死を迎えた多くの人々に対して、少しだけでも追悼してあげることくらいでしょう。いつかは自分も追悼されることを覚悟して。

長い前置きになりましたが、self23が久々に本公演をおこないます。数年前よりテーマをストレート化させているself23は、今回も非常に単純なテーマとストーリーを展開させます。上の前置きに書いた人間の殺戮の状況から、そこに付随する様々な要因を排除した、いわば「純粋殺戮空間」の話です。

その、あまりに殺伐とした暴力的風景は、多くの人々にとっては何の娯楽にもなり得ないかもしれないし、不快にさえ感じるかもしれません。それでも、今の私にとっては、現時点での地球の歴史を描くにはこういう方法しか思いつかないのです。

私たち self23に、痙攣した笑いや屈折した廃墟の創造の時代は終わっています。今の私たちは単純に悲劇に涙する粗暴な生き物の集団であるのかもしれません。

1999.9.6 oka