最近、Wikipediaの項目が変わるので、好きな項目を保存(菅原文太さん編)

Wikipedia は時代に応じて内容が変わります。今はありますけれど、いっとき、5代目の古今亭志ん生の項目の以下が見当たらないときがありまして、こんな素敵なエピソードの数々が消えてはいけないと。

古今亭志ん生 (5代目) Wikipediaより)

> 関東大震災発生時は、酒が地面にこぼれるといけないと思って真っ先に酒屋へ駆け込み、酒を買った。酒屋の主人はそれどころではないと勘定をとらず、その場でタダで1升5合ほども飲んで泥酔して帰宅した。夫人のりんは当時長女を妊娠中で、大地震の最中に家から飛び出して泥酔して帰宅した亭主にさすがにたまりかねて大変な剣幕で面罵した。

こういう素敵なエピソードは、時代によって、結構消えたりするんですよ。

以下は、若山富三郎 – Wikipedia からの抜粋です。当時の芸能界はヤクザの世界で、わかりやすいですよねえ。


逸話

菅原文太

1967年、松竹に在籍していた新東宝時代の後輩・菅原文太が東映に移籍し若山に挨拶に行った際、東映への移籍は安藤昇からの勧めがあったことから、若山は「お前は安藤の子分になったのか」と訊ねた。菅原はそれを否定し「そうか!ならワシんとこの若い衆になれ!」と、それ以降菅原を可愛がるようになった。

その後、菅原は1969年に『現代やくざ 与太者の掟』で東映で初主演(この作品にも、若山が出演し華を添えている)、1973年には『仁義なき戦い』シリーズが大ヒットし、一躍東映の看板スターとなるに至り、菅原を妬んだ東映生え抜きの役者連中は若山に「菅原が天狗になってます。何とかしてください」等と告げ口を始める。

菅原自身は若山には礼を尽くしていたので、若山は意に介していなかったが、遂に乗せられ「アイツ自身のためにみんなの前で殴る」と菅原を殴ることになった。

東映京都撮影所の俳優会館の前に椅子を持ち出して待ち構え、通りかかった菅原を見つけ「オイ、文太!」と声を掛けた。ところが機敏に察知した菅原は、若山に走り寄りその手をとって「オヤッさん、ありがとうございました。ぼくみたいな下手な役者が、小さな賞ですけど京都市民映画祭の主演男優賞を獲れたのはオヤっさんのおかげです。ありがとうございました。」と恭しく挨拶した。

気勢をそがれた若山は「おお、そうか…。文太、お前の部屋(東映の控え室)にテレビはあるのか?」と聞き、菅原が「ありません」と答えると、「じゃあみんなでお祝いに買ってやる」として奥で隠れてやり取りを見ていた子分の山城新伍から3万円を出させ、テレビを買い与えた。

当時のテレビの価格では3万円は頭金にしかならず、かといって他の役者達は金を出さなかったので、電器屋が菅原のところへ代金を請求に行ったところ「取れるもんなら、取ってみい!」と凄まれて泣く泣く帰る羽目になり、結局電器屋は丸損となった。


もう、みんなが大変な時代で(笑)。一番大変だったのは、電器屋さんですけど。