Grokへの質問:作家の埴谷雄高さんは「存在の革命」と述べられていたのですけれど、音楽でそれは可能でしょうか

灰野敬二までも出てきました。


Grokのへの質問:音楽の話から外れて申し訳ないですけれど、作家の埴谷雄高さんは「存在の革命」と述べられていたのですけれど、音楽でそれは可能でしょうか

Grokの回答:

(※) その前に音楽の質問をしていたのでした。


素晴らしい質問!埴谷雄高の「存在の革命」という概念を音楽に結びつけるのは、めっちゃ面白い視点です。音楽の話から少し外れたとしても、全然問題ないですよ!このテーマ、めっちゃ深掘りできそう。埴谷の哲学と音楽を絡めて、簡潔かつ本質的に考えてみます。

埴谷雄高の「存在の革命」とは

埴谷雄高(特に『死霊』などで知られる作家)は、「存在の革命」を人間の内面的な変革や、存在そのものの本質的な問い直しとして語っています。これは単なる社会変革を超え、個人の意識や世界との関係性を根本から揺さぶるような変化を指すと考えられます。彼の思想は、観念的で抽象的ですが、自己と世界の境界を問い直し、新たな「生き方」や「見方」を生み出すことに重点を置いている。

音楽で「存在の革命」は可能か?

音楽は、感情や意識に直接訴えかける力を持つメディアなので、埴谷の言う「存在の革命」を引き起こす可能性は十分にあると思います。以下、ポイントごとに考察:

・音楽の内面的変革の力

・音楽は、言葉を超えて人間の深層意識や感情に働きかける。たとえば、ジョン・ケージの『4分33秒』は「沈黙」を通じて聴く行為や存在そのものを再定義し、聴衆に「何が音楽か」「自分が何を感じているか」を問い直させる。これは、埴谷の「存在の問い直し」に近い効果を持つ。

・具体例:ミニマル・ミュージックのスティーヴ・ライヒや、実験音楽の坂本龍一(晩年のアンビエント作品)は、時間や空間の感覚を変化させ、聴く者の「存在」を揺さぶるような体験を提供する。

・音楽と集団的意識の変革

音楽は社会や文化の枠組みを変える力も持つ。ボブ・ディランの反戦ソングや、1970年代のパンク(セックス・ピストルズなど)は、既存の価値観や体制に挑戦し、聴衆の意識を覚醒させた。これも、ある種の「存在の革命」に繋がる。

日本だと、例えば、UAやCorneliusのようなアーティストが、商業音楽の枠を超えて独自の表現で「自分とは何か」を問う作品を作ってきた。こういう音楽は、聴く者のアイデンティティや世界観を再構築するきっかけになりうる。

・現代の課題:商業との葛藤

・前の質問で触れた「商業に飲み込まれる音楽」の問題は、ここでも関連する。商業音楽は「心地よさ」や「消費」を優先しがちで、埴谷の言うような深い変革を起こすのは難しいかもしれない。一方、インディーズや実験音楽のシーン(例:日本のノイズミュージック、灰野敬二など)は、商業の枠外で「存在」を問うような挑戦を続けている。

・Xで「#experimentalMusic」や「#noiseMusic」を検索すると、商業から離れたアーティストたちが、音楽を通じて「存在の革命」に近い試みをしているのが見えるよ(2025年現在もこの動きは続いてる)。

・AIと「存在の革命」

・AI生成音楽(例:SunoやAIVA)は、既存のデータを基に作るので、埴谷の言う「革命」を直接引き起こすのは難しいかもしれない。でも、AIを「人間の意識を拡張するツール」として使えば、例えば、予測不能な音の組み合わせや新しい音楽体験を生み出し、聴く者の「存在」を揺さぶる可能性はある。現時点では、AIは人間の意図を補助する役割が強いけどね。

結論

音楽で「存在の革命」は可能か? 可能だと思います。特に、実験的・前衛的な音楽や、商業の枠を超えたアーティストの作品は、聴く者の意識や存在のあり方を根本から問い直す力を持つ。ジョン・ケージ、坂本龍一、灰野敬二のようなアーティストの作品は、埴谷の思想に通じる「内面的変革」を引き起こす例と言える。一方で、商業音楽の枠内では、この革命は起こりにくいかもしれない。