末井昭「老化研究の最前線。誰も死なない世界は穏やかな地獄か」

 


末井昭「老化研究の最前線。誰も死なない世界は穏やかな地獄か」

婦人公論 2021/09/30

◆「亡くなった」と言っていいのかどうか

前にも書いたように、ぼくが聖書に興味を持つようになったのは、聖書研究会「イエスの方舟」のリーダー千石剛賢さんの聖書解釈に惹き込まれたからです。

その千石さんは2001年に亡くなったのですが、果たして「亡くなった」と言っていいのかどうか迷うところです。というのは、千石さんは亡くなる1年ほど前から、集会の時に「人間は死なない」とよく話していたからです。人間の体は病気したり老化したりすることが当たり前のように思われていますが、次々と肉体の上に不都合なことが起きるのは、人間が「原罪」のために死ぬことの表れだと言うのです。

〈もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです〉

(ローマ 8-11)

この聖句の「あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる」というところは、病気や老化といった肉体的に不都合な状態が消えるということです。ただし、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」という条件つきです。それはつまり、罪がない人ということです。

罪がない人の代表はイエス・キリストです。「イエスの方舟」では、イエスを生活すること(キリストの考えを自分の存在において、また生活の場で行為していくこと)によって、罪から解放されることを目指していました。

実際、「イエスの方舟」の人たちは、あまり年を取りませんでした。もう20年以上も行っていないので確認はしていませんが、ぼくが集会に参加していた頃、4年ほど「イエスの方舟」に行くことを中断したことがありましたが、それこそ時間が止まっているかのように、みなさん4年前と全く変わらない感じだったのです。千石さんは、10歳年を取っても、見た目は3歳ぐらいしか年を取ってないように見えると言っています。

◆死ぬことは隣の部屋に行くようなもの?

しかし、このような現象的なことはたいしたことではなく、もっと大変なことが起こると千石さんは言うのです。罪のために生命が有限化されてしまった人間のあり方から解放されて、無限生命の状態に移されるのだと。人間はある時がきたら死ぬものだと誰もが思い込んでいるのだけど、それは思い込んでいるだけで、人間の本当のあり方とは違う。「いのち」は本来無限のものなのに、罪のために有限化されてしまった。その状態から、元の無限状態に変わると言うのです。死なないことが本当なのだと。

イエスを生活していると、肉体を持っている間に無限生命を自分の実感として受け取らされる、自分は死なないんだと本当に得心できるようになるということですが、そんなことを言いふらしていたら、「ほんまに頭ヘンなのとちゃうか」と人から言われると千石さんは言います。確かに常識から考えたらあり得ないことですからヘンに思われて当然です。

千石さんの聖書解釈は常識とは真逆です(真逆にならざるを得ないといったほうがいいのかもしれません)。ぼくは常識人だけど、その常識から解放されたいという気持ちがあるから、千石さんに惹かれたのかもしれません。

こんなことを書いているぼくも、人間はある時がきたら死ぬものだと思っていたので、千石さんの話を聞いてびっくりしたのでした。どんな人にも寿命があって、寿命がきたら死んでしまうというのはごくごく普通の考えで、どんなに成功した人でも、成功できなかった人でも、同じように死ぬ時はやってくるのです。「人間、どうせいつかは死んでしまう」ということが、生きて行く上での憂うつの根源ではないかと思っていたのでした。

しかし、イエスを生活するということはなかなか難しいことです。当然、ぼくは罪の中にいるわけですから、人間は死なないということを実感として感じられません。だから理屈として考えることしかできないのです。

千石さんは、「死ぬことは隣の部屋に行くようなものです」と話したことがあります。その言葉を聞いたのは1回だけでしたが、その意味も聞いておけばよかったと後悔しています。

ヒントはその言葉だけなのですが、その言葉から想像すると、まず霊のようなものがあり、その霊が肉体に宿り、肉体が消滅しても肉体から離れた霊は存在しているということではないかと思うのです。あのイエスがそうであったように。

もしそうだとすれば、肉体という厄介なものから抜け出て、自由に何処へでも飛んで行けて、受信できる感性を持っている人とコンタクトもできると考えれば、死んでも悪くないなと思えるのです。それが実感でなくて、想像でしかないのが残念ですけど。

◆ハラリ氏の著書『ホモ・デウス』と不老不死

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書『ホモ・デウス』(柴田裕之・訳 河出書房新社)を読んでいたら、気になる箇所がありました。不老不死に関係する箇所です。

驚きました。不老不死が実際にビジネスとして動き出しているのです。どのくらい先にそれが実現するのかというと、カーツワイルとデグレイは、2050年には、死を10年単位で先延ばしして行くことで不死に成功する可能性があると主張しているそうです。10年ごとに医療機関に行き、修復治療を受け、疾患を治してもらうだけでなく、劣化した組織を再生し、手や目や脳をアップグレードしてもらうことができるようになるというのです。

ぼくは2050年まで生きることはまずないと思いますが、あと30年後といえば、現在50~60歳の人ならば可能かもしれません。健康な体と豊富な資金力があればの話ですが。

◆老化の「典型的特徴」が組み合わさった結果?

『ホモ・デウス』から2年後に出版された、不老不死について書かれているデビッド・A・シンクレア氏の著書『LIFESPAN 老いなき世界』(梶山あゆみ・訳 東洋経済新報社)を読んでみました。シンクレア氏は、ハーバード大学医学大学院の遺伝学の教授で、老化を遅らせる遺伝子や低分子の研究で世界的に注目されています。本の中に多くの科学者の名前が出てくるところを見ると、ハラリ氏が「まだ少数派」と書いた頃より、この分野で活躍する研究者はかなり増えているのではないかと思います。

シンクレア氏は、〈100歳まで生きることを考えるとき、今なお「滅相もない」と思わざるを得ない。人生最後の数十年間がどういうものかを目の当たりにしてきたからであり、それがお世辞にも心惹かれるとはいえないケースが大半だからだ。人工呼吸器と種々雑多な薬。股関節骨折とおむつ。化学療法に放射線。手術に次ぐ手術に次ぐ手術。そして医療費。そう、忌忌しい医療費だ〉と、まさに忌忌しく書いて、〈私が思うに、健康な状態なしに生だけを引き延ばそうとするのは、断じて許しがたい罪である。この点は重要だ。寿命を延ばせても、同じくらい健康寿命を長くできないのなら意味がない。前者を目指すのなら、後者も実現するのが私たちの道義的な責務である〉と、おそらく延命治療を想定して「罪である」とまで書いています。

これまで、老化の研究をする大勢の聡明な研究者がいくら頑張っても、老化の原因を突き止められなかったのは、もともとそんなものは存在しなかったからで、老化も、老化に伴う病気も、老化の「典型的特徴」が組み合わさった結果だという結論に今は達しているようです。老化の特徴は以下の通りです。

DNAの損傷によってゲノムが不安定になる。
染色体の末端を保護するテロメア(特徴的な反復配列をもつDNAとタンパク質からなる複合体)が短くなる。
遺伝子スイッチのオンオフを調節するエピゲノムが変化する。
タンパク質の正常な働き(これを恒常性という)が失われる。
代謝の変化によって、栄養状態の感知メカニズムがうまく調節できなくなる。
ミトコンドリアの機能が衰える。
ゾンビのような老化細胞が蓄積して健康な細胞に炎症を起こす。
幹細胞が使い尽くされる。
細胞間情報伝達が異常をきたして炎症性分子がつくられる。

 

◆一切お金がかからない老化防止の方法

これらの問題を対処すれば、老化を遅らせることができ、病気も未然に防ぐことができるのです。それぞれの項目については、本の中で詳しく説明されています。

今はまだ「老化の生物学的仕組み」を解明するための研究には、アメリカの医学研究予算全体の1%も振り向けられていないそうです。シンクレア氏はこう言っています。〈健康寿命を延ばす研究分野の革新を加速し、薬品やテクノロジーの発見につなげるには、いくつか方策がある。しかし、一番手間がなくて簡単なのは、老化を病気と位置づけることだ。それ以外は何も変えなくていい。そうすれば老化の研究者も、ほかの個別の病気に取り組む世界中の研究者と対等に競えるようになる。どの研究活動に助成金を出すかが決まる際にも、提案書の内容が科学的に見て価値あるものかどうかが基準にされるようになる〉

すでに老化防止の薬品やサプリメントが発売されていますが、かなり高価なものが多いようです。そこで、一切お金がかからない老化防止の方法も、シンクレア氏は教えてくれます。

・野菜や豆類や全粒の穀物を多く摂理し、肉や乳製品や砂糖を控える。
・動物性タンパク質より植物性タンパク質を摂る。
・食事の量、回数を減らす。
・間欠的断食(食事を抜く期間を周期的に差し込む)。
・医師が一般に推奨するカロリーの75%程度に抑える。
・頻繁に運動をする。
・寒さに身をさらす。頻繁にサウナに入る。
・タバコはやめる。

どれもこれも健康本に出てくるような方法ですが、老化のメカニズムを知り尽くした科学者が細胞レベルでこの方法がいいと提唱すると、健康寿命維持のためにやってみようかなという気になります。

◆不死を達成した人は「史上最も不安な人々」

それにしても、自分の体が死なないことになったら、それもまた悲惨なことになり得るのかもしれません。ハラリ氏は『ホモ・デウス』で、不死を達成した人は「史上最も不安な人々となる」と書いています。なぜなら、永久に生きられるとしても、肝心の命がなくなったらそれまでなので、海で泳いだり、車が通る道を渡ったり、登山をしたり、多少とも命の危険があることはできなくなるのです。〈無限の人生をそんなことに賭けるのは馬鹿げている〉ということです。

いつか自分がこの世からいなくなってしまうと思うから、人生が充実することがあると思います。生きてるうちに何かを世に残そうと頑張っている人もいます。たとえが悪いかもしれませんが、(ぼくの場合でいうと)締め切りがあるからこそ原稿が書けるということです。生きている時間が極端に短い宿命にある人もいます。それでも必死に頑張っている人を見ると、感動と勇気をもらうことがあります。「ボーッと生きてんじゃねえよ!」と言われているような気持ちになることもあります。

もし、それほどお金がかからなくて不死を得ることができ、多くの人たちが死ななくなったとしたら、その人たちは何を考えて生きて行くのでしょうか。そういう人たちが集まっている公園があるとしたら、そこは穏やかな地獄のような気がします。

神はあえて人間に「死」を与えたのかもしれません。肉体が滅んだあと、霊として残るのかどうかはわかりませんけど。