Grok への質問:ライバッハは80年代の共産国圏のバンドでしたが、アートの流出が厳しい国のそのアルバムを日本で手にできた理由は何でしょうか?

このライバッハというのは、23歳くらいの時ですかね、同じ学校だった人が聴かせてくれて、「これは…!」と驚いたものでした。どこの人かと聞けば、ユーゴスラビア(当時)のユニットだとのことで、「なんで共産圏のレコードが日本で手に入るわけ?」と聞いたものでした。ソ連にしてもポーランドにしても、当時の共産国圏の国のレコードは、普通では、まず手に入らないものだったのです。

ライバッハは「二十代によく聴いていた曲」の 2番目にあげたことがあります。

それで Grok に質問してみたわけなのですが、なお、今回の回答の中に、「クイーンの「One Vision」をドイツ語でカバーした「Geburt einer Nation」を取り入れ…」とありまして、

「え? あの曲、クイーンのカバーなの?」

とさらに驚きました。ライバッハで大好きだった曲なんですよ。1987年の以下の曲です (うちの奥様はこれを見る度に「この人、やせすぎ」と言います)。

それで、クイーンの「One Vision」(オリジナルビデオはこちらです)というのを聴いてみますと、「ああ、同じ。あれはカバーだったんだ」と感嘆した次第でした。40年も経って、はじめて知った話です。


Grok への質問:ライバッハのアルバムは、1980年代に、日本で手にしたのですが、他の共産圏の音楽と違い、西側でも販売されていたということになりますね。ユーゴスラビアは比較的、アートの流出に許容性が高かったのでしょうか?

Grok の回答:

はい、まさにその通りです!ライバッハ(Laibach)のアルバムが1980年代に日本で手に入ったということは、彼らの音楽が西側で流通していたことを示しており、これはユーゴスラビアの独特な政治的・文化的環境が大きく影響しています。

ユーゴスラビアは、他の共産圏諸国(ソビエト連邦、ポーランド、チェコスロバキアなど)と比較して、西側との文化交流やアートの流出に対して顕著な許容性を持っていました。以下で、ライバッハの西側での流通と、ユーゴスラビアのアートに対する姿勢を詳しく考察し、ドイツのDAFや日本のKorg/Rolandとの関連も踏まえてお答えします。

1. ライバッハのアルバムが西側で流通した背景

ライバッハのアルバム、特に『Opus Dei』(1987年)や『Let It Be』(1988年)は、英国のインディペンデントレーベル Mute Records(Depeche ModeやNick Caveも所属)を通じて西側でリリースされ、日本を含む国際市場で流通しました。これは、他の東欧諸国のバンドでは非常にまれなケースでした。以下にその理由を掘り下げます。

・Mute Recordsとの契約:

・ライバッハは、1980年代中盤に西側の注目を集め、1985年に初の西側ツアー(ヨーロッパ)を行いました。Mute Recordsは彼らの挑発的なスタイルと音楽的革新性に魅了され、1987年の『Opus Dei』をリリース。このレーベルの流通網により、ライバッハの音楽は英国、ヨーロッパ、北米、そして日本に届きました。日本のインディーズ音楽ファンや実験音楽愛好者は、輸入盤を通じてライバッハのアルバムを入手し、1980年代後半の日本のオルタナティブシーン(例:ポストパンクやインダストリアルファン)で話題となりました。

・日本では、インディーズレコード店(例:東京のHMVやタワーレコードの輸入盤コーナー)や専門誌(『ロッキング・オン』や『ミュージック・マガジン』)を通じて、ライバッハのようなアーティストがニッチな層に紹介されました。あなたがアルバムを手にされたのも、こうした流通網のおかげと考えられます。

・ライバッハの国際的アピール:

・ライバッハの音楽は、英語やドイツ語の歌詞(例:クイーンの「One Vision」をドイツ語でカバーした「Geburt einer Nation」)を取り入れ、言語の壁を部分的に克服。視覚的パフォーマンス(軍服や総統風のビジュアル)も、音楽を超えたアートとして西側のメディアやアートシーンで注目されました。

・彼らの「過剰同化(over-identification)」戦略は、冷戦下の西側リスナーにとって、東欧からの「謎めいた声」として好奇心を刺激。特に日本では、YMOやノイズミュージック(例:Merzbow)の文脈で、ライバッハのインダストリアルなサウンドと挑発的な姿勢が受け入れられました。

2. ユーゴスラビアのアート流出に対する許容性

ユーゴスラビアは、他の共産圏諸国と比べてアートや音楽の流出に対して明らかに寛容でした。この背景には、ユーゴスラビアの政治的・文化的特異性が関係しています。

・非同盟政策と西側への開放性:

・ユーゴスラビアは、チトー大統領の下で非同盟運動を推進し、ソビエト連邦や東側陣営から距離を置きました。1948年のチトー・スターリン決裂以降、ユーゴスラビアは西側との経済・文化交流を積極的に進め、観光業や貿易を通じて外貨を獲得。西側のレコード、映画、ファッションが比較的自由に入り、若者はビートルズ、クラフトワーク、パンクバンドなどにアクセスできました。

・この開放性は、音楽やアートの輸出にも反映されました。ユーゴスラビアのバンドやアーティストは、西側での公演やレコードリリースが許可されることがあり、ライバッハのようなグループは西側レーベルと契約する機会を得ました。たとえば、ゴラン・ブレゴヴィッチのBijelo Dugmeも、バルカン地域だけでなく西ヨーロッパで一定の知名度を獲得しました。

・検閲の相対的な緩さ:

・他の東欧諸国(例:ソビエト連邦や東ドイツ)では、反体制的な歌詞や西洋風の音楽は厳しく検閲され、公式リリースや海外公演はほぼ不可能でした。一方、ユーゴスラビアの検閲は厳格ではあるものの、比較的緩やかで、特にスロベニアやクロアチアのような共和国では、文化的実験が容認される傾向がありました。

・ライバッハの場合、1980年代初頭にスロベニアでの公演が禁止されたものの、完全に活動を封じられることはなく、NSK(新スロベニア芸術)としてのアートプロジェクトも継続できました。

彼らの挑発的なスタイルは、ユーゴスラビア当局にとって扱いにくいものでしたが、完全な禁止よりも「管理された容認」が選ばれたのです。この点が、ソビエト連邦のKinoやチェコスロバキアのThe Plastic People of the Universe(逮捕や活動禁止に直面)とは大きく異なります。

・スロベニアの文化的先進性:

・ライバッハの拠点であるスロベニアは、ユーゴスラビアの中でも経済的・文化的に進んだ地域でした。リュブリャナ(スロベニアの首都)は、パンクやニューウェーブのシーンが活発で、IdoliやŠarlo Akrobataのようなバンドも生まれました。

スロベニアのアーティストは、西側のポストパンクやインダストリアル(例:Throbbing Gristle、Cabaret Voltaire)に影響を受けつつ、独自の表現を模索。ライバッハのNSKは、このスロベニアの前衛的な土壌から生まれ、音楽だけでなくビジュアルアートやパフォーマンスを通じて西側にアピールしました。

・スロベニアの文化的自由度は、ユーゴスラビアの他の地域(例:セルビアやボスニア)と比べても高く、ライバッハが西側で活動する基盤を提供しました。

3. 他の共産圏との比較

他の東欧諸国(ソビエト連邦、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアなど)では、アートや音楽の西側への流出が極めて限定的でした。以下に比較をまとめます:

・ソビエト連邦:

・音楽シーンはアンダーグラウンド(例:レニングラード・ロッククラブ)で発展し、KinoやAquariumのようなバンドはテープや「骨盤レコード」で非公式に広まりましたが、西側への輸出はほぼ皆無。1980年代後半のペレストロイカ以降、Kinoのヴィクトル・ツォイが西側で知られ始めたが、日本での認知は限定的でした。

・検閲が厳しく、海外公演やレコードリリースは国家の許可が必要で、ライバッハのような国際的な成功は不可能でした。

・ポーランド:

・ポーランドのロックやパンク(例:Dezerter、Siekiera)は、反体制的なメッセージを持ち、1980年代の「連帯」運動と連動。しかし、検閲や経済的制約により、西側でのレコード流通はまれ。チェスワフ・ニーメンのようなアーティストは西ドイツやフランスで一部認知されたが、日本にはほとんど届かず。

・ポーランドの音楽は、国内の若者文化や抵抗に焦点を当て、国際的なアピールは二次的でした。

・チェコスロバキア:

・The Plastic People of the Universeは、反体制的なロックで知られ、プラハの春(1968年)の精神を継承。しかし、メンバーの逮捕や活動禁止により、音楽はアンダーグラウンドに限定され、西側への流出は極めて困難でした。1980年代後半のビロード革命前には、海外での認知はほぼ皆無。

・ディスコやポップは当局に容認されたが、商業的・国際的な成功には繋がらず。

・東ドイツ(GDR):

・東ドイツのバンド(例:Die Skeptiker、Namenlos)は、パンクやロックを通じて体制に抵抗したが、ベルリンの壁や厳格な検閲により西側へのアクセスは制限。1989年の壁崩壊後、一部のバンドが西側で知られたが、ライバッハほどの国際的影響力はなかった。

・東ドイツの若者は、西側のラジオ(例:Radio Free Europe)でクラフトワークやDAFを聴き、影響を受けたが、自身の音楽を輸出することは困難でした。

・ユーゴスラビアの特異性:

・ユーゴスラビアは、西側との文化交流を奨励し、ビザなしで西側への旅行が可能な数少ない共産圏国家でした。アーティストは西側での公演やレコード契約の機会を持ち、ライバッハはこれを最大限に活用。Bijelo Dugmeやレパ・ブレナもバルカン地域で人気を博し、一部西ヨーロッパで知られたが、ライバッハのコンセプチュアルなアプローチは特に西側のインディーズやアートシーンに訴求しました。

4. ライバッハとドイツのDAF、日本のKorg/Rolandとの関連

ライバッハの音楽と成功は、ドイツのバンド(DAFなど)や日本のシンセサイザー(Korg、Roland)とも間接的に結びついています。

・DAFとの比較:

・類似点:DAF(Deutsch Amerikanische Freundschaft)とライバッハは、Korg MS-20やRoland TR-808といった日本のシンセサイザーを活用し、攻撃的でインダストリアルなサウンドを追求。両者とも挑発的な歌詞とパフォーマンスで体制を批判(DAFは性や政治、ライバッハは全体主義)。

・相違点:DAFは西ドイツのポストパンクシーンから生まれ、自由な市場で活動。ライバッハはユーゴスラビアの検閲下で活動し、コンセプチュアルな「過剰同化」を通じて間接的な抵抗を展開。DAFのサウンドはダンスフロア向けで肉体的だったが、ライバッハは演劇的で観念的。

・影響:ライバッハはDAFの影響を受けつつ(インダストリアルやEBMの要素)、クラフトワークやワーグナーの壮大さを加え、独自のスタイルを確立。DAFが日本のテクノポップ(YMO)に影響を与えたように、ライバッハも日本のインディーズシーンに間接的なインスピレーションを与えた可能性があります。

・KorgとRolandの役割:

・ライバッハは、1980年代後半にKorg M1やRoland D-50を活用し、インダストリアルなビートとオーケストラルなテクスチャーを融合。Korg M1のデジタルシンセシス(1988年発売)は、豊富なプリセット音色でライバッハの劇的なサウンドを強化し、Roland D-50のリニア・アリスマティック合成は、荘厳な雰囲気を作り出しました。

・日本のシンセサイザーは、ユーゴスラビアのアーティストにとって手頃で革新的なツールであり、ライバッハが西側のリスナーに訴求するサウンドを構築する助けとなりました。日本のYMOも同様にKorgやRolandを使用し、グローバルなテクノポップを牽引した点で、ライバッハと共通の技術基盤を持っていたと言えます。

日本との接点:

・ライバッハのアルバムが日本で入手できた背景には、ユーゴスラビアの開放性に加え、日本のインディーズ音楽市場の成長があります。

1980年代後半、日本のオルタナティブシーンは、インダストリアル(例:Throbbing Gristle)、ノイズ(Merzbow)、ポストパンク(Phew)を積極的に受け入れ、ライバッハの挑発的なスタイルはこうしたリスナーに響きました。

・Phewのアルバム『Phew』(1981年、コンラッド・プランクプロデュース)は、ドイツのクラウトロックと日本のポストパンクの融合でしたが、ライバッハの音楽も同様に「東と西の交差点」として、日本のファンにとって新鮮な衝撃だったと考えられます。

5. ユーゴスラビアの文化的許容性の影響

ユーゴスラビアのアート流出への許容性は、ライバッハだけでなく他のアーティストにも影響を与えました:

・音楽以外の例:

・ユーゴスラビアの映画監督(例:エミール・クストリッツァ)は、1980年代に西側で高い評価を受け、カンヌ映画祭などで受賞(例:『パパは出張中』、1985年)。これもユーゴスラビアがアートの国際的輸出を容認していた証です。

・ビジュアルアートやパフォーマンスアートも、NSKのような集団を通じて西側に紹介され、ライバッハの音楽と連動してスロベニアのアートシーンを世界に知らしめました。

・ライバッハの戦略的成功:

・ライバッハは、NSKの一環として「国家」を自称し、独自のパスポートや大使館を設置するなど、アートとしての挑発を強化。これにより、西側のメディアやアートシーンでの話題性を高め、商業的成功に繋げました。他の東欧諸国のバンドがアンダーグラウンドに留まったのに対し、ライバッハは「アート戦略」を通じて西側市場に参入。

・日本での流通は、こうした戦略とMute Recordsのグローバルなネットワークにより可能となり、1980年代後半のインディーズブームに乗ってニッチなファン層に届きました。

6. 結論

ライバッハのアルバムが1980年代に日本で手に入ったのは、ユーゴスラビアの他の共産圏と比較して高いアート流出の許容性と、Mute Recordsのような西側レーベルのサポートによるものです。

ユーゴスラビアの非同盟政策、相対的に緩い検閲、スロベニアの文化的先進性は、ライバッハが西側で活動し、KorgやRolandのシンセサイザーを活用して挑発的なサウンドを構築する基盤を提供しました。他の東欧諸国(ソビエト連邦、ポーランドなど)では、厳しい検閲や情報遮断により音楽の西側への流出が困難だったのに対し、ユーゴスラビアの開放性は、ライバッハやBijelo Dugmeのようなアーティストが国際的な注目を集める要因でした。

ライバッハの「過剰同化」戦略と日本のシンセサイザー技術の融合は、彼らの衝撃的なサウンドをさらに際立たせ、日本のインディーズファンに強烈な印象を与えたのです。