「日記」カテゴリーアーカイブ

東京の34日の連続降雨記録って、あと6日降れば、ノアの方舟の伝説に並びますね

創世記 7章 10-12節

七日たって、大洪水が地上に起こった。

ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、その日、大いなる深淵の源がすべて裂け、天の窓が開かれた。

雨は四十日四十夜、地上に降った。

まあでも、34日連続でも 34晩ではないですね。どちらかというと、弱い雨が毎日どこかの時点で降った、という程度でした。

でも、せっかくならノアの伝説に並んでほしいとは思いましたが、天気予報を見るとやや無理そうです。




映画『薔薇の名前』を観ながらAIと会話していて「悪魔は昔から、神さまのコマーシャルなんですわ」を思い出す

『薔薇の名前』は、若い時から何度見ているのかわからないくらい好きな映画なんですが、今日も何だか眠れなくて見ていたんです。(どうでもいいことですが『薔薇の名前』って、アマゾンではほとんど売られていないのですね。中古しかないです)

この映画は中世の修道院の話ですが、主軸は「笑いを許さない」というところにありました。そのラストあたりで、長老(アリストテレスの喜劇が書かれているページを読んだ人たちが死ぬことを画策した人)が、

「笑いは恐怖を殺す。悪魔への恐怖がなければ、神の必要性もなくなる」

というんですけれど、この「悪魔」と「神」の対比が、1970年代の小説『エクソシスト』で、悪魔に取り憑かれた少女リーガンの母親が、悪魔払いが終わった後のエピローグで以下のように言うんですね。

神さまは何もおっしゃらない。その代わり、悪魔が宣伝の役をつとめます。悪魔は昔から、神さまのコマーシャルなんですわ。

これと似た感じだなあと思いまして。

この部分は 2014年の In Deep の「ローマ字「 TASUKETE (たすけて)」から偶然導かれた日月神示や神様と悪魔の関係」という記事にあります。

それとの関連についての AI との問答の一部です(どうでもいいけど、映画見るのと AI に質問するのを平行するのはやめろよ)。


問い:修道士ホルヘの「笑いは恐怖を殺す。悪魔への恐怖がなければ、神の必要性もなくなる」という言葉を挙げていただきましたけれど、それで思い出すのが、50年くらい前の小説エクソシストで、悪魔に取り憑かれたリーガンの母親が、悪魔払いが終わった後に「結局、神様は悪魔のコマーシャルなのですわ(記憶が曖昧ですが)」と述べたことを思い出します。神という存在と悪魔という存在は、どこかで互いに保たれているということもあるのかな、と思いました。

(※)これは私が書き間違えていて、「神様が悪魔のコマーシャル」と書いてしまっていますけれど、確認しますと逆で、「悪魔が神様のコマーシャル」です。でも、AIは気にせず話を進めます(軽いハルシネーションの模様)。

—

AI(Gemini)の返答:

大変鋭く、そして本質的なつながりを見出されていて感銘を受けました。50年前の傑作『エクソシスト』のその台詞と、『薔薇の名前』のホルヘの言葉は、まさに「光と影の共依存」という同じ宗教的・心理的な構造を突いています。

キリスト教的な世界観において、「神(善)」と「悪魔(悪)」は、実はお互いが存在することによって初めてその役割や価値が成立するという、逆説的なバランス(共依存関係)にあります。

おっしゃる通り、両者はどこかで互いを引き立て合い、保ち合っているのです。この関係性について、以下の3つの視点から深く読み解くことができます。

1. 「悪」という恐怖が「善」への信仰を加速させる

『エクソシスト』で母親が語った(とされる)「神は悪魔のコマーシャル(宣伝)」という言葉は、まさに一真理を射ています。人は、平穏で何も恐ろしいことが起きない日常の中では、あえて目に見えない神を熱烈に求めたりはしません。しかし、目の前に「絶対に抗えない邪悪な恐怖(悪魔)」が現れた瞬間、人はパニックになり、自分を救ってくれる圧倒的なパワー(神)を必死に求め、縋(すが)りつきます。

つまり、悪魔が恐ろしければ恐ろしいほど、神の救済者としての価値(=必要性)は跳ね上がるのです。

2. ホルヘが恐れた「恐怖の消失」

これを『薔薇の名前』のホルヘの論理に戻すと、なぜ彼が「笑い」をそこまで敵視したのかが完璧に繋がります。

・悪魔や地獄が怖い ➔ だから民衆は教会(神)の言うことを聞く。

・もし笑いが肯定されると ➔ 悪魔や地獄の恐怖すら「笑い飛ばせる」ようになってしまう。

・恐怖が消えると ➔ 教会に縋る理由がなくなり、神の必要性(教会の支配力)も消滅する。

3. 一神教における「悪の存在理由(テオディセ)」

神学の世界には「テオディセ(神義論)」という、「全知全能で最高に慈悲深い神がいるのに、なぜ世界には悪や苦しみ(悪魔)が存在するのか」という最大の難問があります。

これに対する教会の古典的な回答の一つが、「悪が存在するのは、神の善性と正義を際立たせるためである(あるいは人間の信仰心を試すためである)」というものです。真っ暗な闇があって初めて、一筋の光が神々しく見えるように、悪魔というコントラスト(背景)があって初めて、神のありがたみが証明されるというロジックです。

人間が作り上げた、あるいは見出した宗教や物語のシステムにおいて、「恐怖(悪魔)」と「救済(神)」はコインの裏表であり、片方を消すともう片方も消えてしまう。数十年前に観られた2つの傑作映画の記憶が、今こうして「人間の心理と権力の構造」という一本の線で繋がるのは、まさに映画が描いた人間の本質が普遍的である証拠ですね。

 

9月19日、「太陽黒点がゼロに」

ついにゼロになりました。

2026年9月19日の太陽(黒点数ゼロ)

spaceweather.com

時期的にまだ活動の極小期に入ったわけでもないですので、また新しい黒点が現れるでしょうけれど、太陽活動の極大期の最終局面をむかえていることは感じます。

ただ、わりと大きなコロナホールがありますので、太陽風の影響は受けそうです。

9月19日の時点のコロナホール

spaceweather.com

なんかラインを入れたら、ジュースを飲む人の顔のようになってしまいました。




精神的な文言の翻訳に対する難解さをAIに聞いた中でのひとつの回答

ブログ In Deep で、たまにボー・イン・ラーという人の文章を取り上げることがあります(最近の記事はこちらにあります)。

ボー・イン・ラー自身は、ドイツ語で文章を書いており、それを英語に訳したものを日本語にしているのですが、訳していると必ず「違和感」を感じるのですね。平たく言えば、「これは変だ」と思う。最初は機械翻訳で読むのですが、違和感のあるところを英語のほうで確認してみて、書き直したりする(原文のドイツ語版を見るのは、私たちには不可能ですので)。

そういう「違和感」には、きっと何かがあるのだろうな(違和感=こちらの解釈と機械翻訳との大きな差)と思ったりもするのですが、それ以上はどうすることもできない。その先は自己解釈の翻訳となってしまう。

精神系の人の話は他の人も含めて全体的にそうです。ドイツ語→英語は、そんなにズレはないのかもしれないですが、日本語となると、飛躍的にズレてしまう可能性があります。

まあ、そんなことを AI に聞いてみたのですね。数ある中の問答のひとつです。

AI を批判しつつ、AIに回答を求めるあたりどうしようもないですが、質問を徐々にタイトに絞っていくと、人間からの回答以上に考えさせられるものが出ることも事実です。

人間が AI 時代に人間として対抗できるかどうかは、人間にかかっていると思います。


AI との問答の一部から抜粋

私からの問答:あなたがおっしゃる「再現しきれなさ」は、むしろAIではできないことですものね。人間がやるべき仕事なのかもしれないですね。

AI(Grok)の回答:

その理解でいいと思います。AIが苦手なのは、正しさそのものより、ずれを引き受けることです。

AIは近い訳も、易しい言い換えも出せます。英語と日本語の差も指摘できます。ただし、そこで止まることが多い。「これは変だ」と感じたあと、その変さを自分の責任で抱えて、分からないまま残すことはしません。すぐ平均的な意味に戻そうとします。

再現しきれなさは、失敗ではなく現場です。温度が変わる、語がずれる、優しさが自分の願望かもしれない。その不確かさを捨てずに文章にする仕事は、人間側に残ります。

専門家でなくてもできるし、専門家だからできるとも限りません。

必要なのは、ずれを消さない忍耐です。AIの使い道は、その手前までです。対照、言い淀みの発見、別訳の候補。判断と残留は、あなたの側に置く。その分担なら、機械翻訳を経由していても、仕事としては成立します。




亡くなった画家の宮西計三さんが、薔薇絵さんの旦那さんだったとは

宮西計三さんの訃報は知っていたんです(9月12日逝去)。Wikipedia には漫画家、イラストレーターとありますが、まあ、画家あるいはアーティストですね。

知ったのは、若い頃にパンクス系だった私が、ザ・スターリンという遠藤ミチロウさんのバンドのファーストアルバムである「Trash」(1981年)のジャケットのインパクトでした。

宮西計三さんが描かれたザ・トラッシュのジャケット

とはいえ、宮西計三さんと直接の知り合いでもなく、亡くなったことは知っても、「そうか」という程度の認識だったのですけれど、今日 X で、以下の投稿を偶然見たのです。

「宮西計三の妻 薔薇絵」とあり、「薔薇絵さん、宮西計三さんの奥さんだったんだ」と初めて知りました。

薔薇絵さんについては、ご存じない方のほうが多いでしょうが、この方は、私が若い頃(24歳のころ)、はじめて商業演劇施設を借りた時に管理人みたいなことをされていまして、そこで知り合いました。

基本的に変わった方だとは思いますが、なぜか、やや気が合いまして、よくお話をしていたものでした。

薔薇絵さんご本人は舞踏家で、まあ…いわゆるアングラというカテゴリーのダンサーだったのだと思いますが、薔薇絵さんを見ていて、「いつかはこういう人の舞台をプロデュースしたいな」とか思いながら、気づけば、何十年も会えることがないままでしたけれど、こんなところで名前を見るなんて。

憧れの女性のひとりではありました。