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こんなムチャクチャな日本語も普通に読めるんだなあと自分で驚く

これ…何故か日本人は読めるらしい…」という投稿と共に、以下の画像が貼られていました。そして…読んでみたら、私にも普通に読めました。人間の読解能力ってどうなってんだ?


konwakubot

ちなみに、ケンブリッジ大学のオリジナルの文章は以下だそうです。こんな混沌としたのも英語を話す人は読めるのかな。

Aoccdrnig to a rscheearch at Cmabrigde Uinervtisy, it deosn’t mttaer in waht oredr the ltteers in a wrod are, the olny iprmoetnt tihng is taht the frist and lsat ltteer be at the rghit pclae.

あ……。Google の機械翻訳をかけたら、こんなメチャクチャな英語でも普通に翻訳されてる。以下です。

(Google 翻訳)ケンブリッジ大学の研究によると、単語内の文字の順序は関係なく、最初と最後の文字が正しい位置にあることだけが重要である。




今の音楽に対しての「人々の許容性」についていくつか話した後のAIの言葉

質問:結局、「多様性」というのを普通に体感できるかどうかなのかもしれないですね。私が20代だった1980年代くらいは、いろいろな音楽がありましたけれど、パンクもノイズも、あるいはブライアン・イーノみたいなアンビエントもありましたけれど、それぞれ否定するのではなく、状況に応じて受け入れるという姿勢は自然とありました。時代的に今はそういう寛容性が厳しいのかなとは思います。「メルツバウもいいよ」なんて言っても通じないですし。


Grok の回答:

そうですね。あなたのおっしゃる「多様性を普通に体感できるかどうか」という点は、とても核心をついていると思います。

1980年代(あなたが20代だった頃)は、まさに音楽の「共存期」でしたよね。

・パンクやポストパンク

・ノイズ/インダストリアル(Merzbowもこの頃本格的に活動開始)

・ブライアン・イーノやアンビエント

・ニューウェーブ、テクノ、ヒップホップの台頭

・日本の場合、シティポップ、ニュー・ウェイヴ、実験音楽、演歌やフォークも並行して存在

これらが**「どれかが正しい」というより、状況や気分によって聴き分ける**のが自然だった時代です。レコード屋や雑誌(宝島、ミュージック・マガジンなど)で全く違うジャンルが同じ空間に並んでいて、否定し合うより「面白いものを探す」好奇心が勝っていた印象があります。「メルツバウもいいよ」と普通に言える空気感は、確かに今よりあった気がします。

 

今の時代との違い

今は情報が爆発的に増えたのに、逆に「寛容性」が狭くなっている側面があります。理由としてよく言われるのは:

・アルゴリズムによる「おすすめ」の偏り(似たものばかり提案される)

・サブカルチャーや趣味の細分化・分断(それぞれのコミュニティが閉じがち)

・SNSでの「正しさ」や「好き嫌いの表明」が目立つ文化

・商業的に「勝ちやすい音楽」が目立つようになった

ただ、完全に失われたわけではないとも思います。Bandcamp、YouTube、SoundCloud、Rate Your Musicなどの場では、今でも極端に違う音楽を深く掘っている人たちが静かに存在しています。

1980年代ほど「街の空気」として多様性が感じられないだけで、地下や個人レベルではむしろアクセスしやすくなっている部分もあります。

Merzbowのような極端なノイズを「いいよ」と言える友人や場が減ったのは寂しいですが、あなたのように Fela KutiからSouad Abdullah、ジャズ、スクラッチ、演歌、琉球音楽までを横断して味わえる耳を持っている人は、今でも確実にいます。そういう人たちこそが、本当の意味での「多様性」を体現しているのだと思います。


(捕捉)Fela Kuti(フェラ・クティ)は、ナイジェリア出身のミュージシャンで、Souad Abdullah (スアド・アブドゥラ)さんは、イラク出身の方です。以下の曲は、イラクのフセイン政権の時代の曲だと思います。




AIのほうが公的資料より大正昭和初期の岩見沢のことに詳しい

私の父方の祖父は岩見沢を縄張りとするテキヤ(要するにヤクザ)の親分をやっていて(その後、結婚を機にカタギに)、母方の祖父は、出生(ルーツ)は不明で、学歴ゼロの道東の炭鉱夫から始まり、最終的には市の助役(今でいう副市長)にまで上りつめるという、それぞれ、ある意味華やかな経歴でしたが、当時のことをちょっと聞いていた時に出てきた Gemini の回答です。

当時の岩見沢には闘犬場があったのかあ…。こういう岩見沢市を見てみたかったなあ。


いろいろな質問の後の Gemini の回答:

当時の地図を開くと、現在の静かな地方都市からは想像もつかない、エネルギーと欲望が渦巻く「炭鉱バブルの巨大ハブ都市」としての岩見沢の姿が浮かび上がってきます。お尋ねの「一条通」と「鳩が丘」の歴史と位置づけについて、古地図の文脈と照らし合わせながら解説します。

 

一条通(現在の1条西〜東):男たちの金が消える「北の不夜城」

お父様側の祖父がテキヤを営んでいたと思われるのが、岩見沢駅の目の前に広がる「一条通」周辺の繁華街です。

・位置と役割:

岩見沢駅は、周辺の炭鉱(夕張、美唄、三笠など)から集まる石炭と労働者をさばく「東北以北最大の操車場」でした。一条通はその駅前一等地にあり、明治20年代の街の誕生とともに急速に発展しました。

・花街の賑わい:

大正から昭和初期の一条通やその裏手(2条、3条など)には、壮麗な「料亭」や「置屋(芸者が待機する店)」、カフェー、映画館、劇場がびっしりと立ち並んでいました。明治29年と大正14年に大火(大火事)に見舞われていますが、炭鉱バブルの圧倒的な資金力によって、その都度さらに豪華な近代建築の街並みへと復興を遂げています。

・テキヤの主戦場:

当時はお祭りの日だけでなく、日常的にこの一条通周辺に露店や見世物小屋、そして博打の賭場が立ち並んでいました。命がけで大金を稼いだ炭鉱夫たちが、文字通り「宵越しの金は持たない」とばかりに札束をばらまき、それをテキヤの男たちが仕切る——。お父様側の祖父が感じていたであろう、生々しい熱気がこの一条通にありました。

 

2. 鳩が丘(現在の鳩が丘):表の行政と、血湧き肉躍る「裏の娯楽」

一方、母方のお祖父様が「助役」として通われたであろう岩見沢市役所は、現在も「鳩が丘1丁目」にあります。この「鳩が丘」という地名自体が、当時の岩見沢のもう一つの強烈なエンターテインメントの歴史を物語っています。

・地名の由来と「闘犬場」:

昭和初期、現在の鳩が丘一帯には広大な緑地や「旧鳩が丘球場」があり、そこには大規模な「仮設の闘犬場」が設けられていました。全国から集まった土佐犬による命がけの戦いに、炭鉱札を握りしめた男たちが群がり、競馬並みの熱狂的な賭博が行われていたと言われています。

この血湧き肉躍る娯楽のイメージから、後に平和の象徴として「鳩が丘」と名付けられたという皮肉な歴史があります。

・行政の中心地への変貌:

戦後、炭鉱の閉山に伴い、岩見沢は荒々しい盛り場の街から、空知地方を統括する「行政と農業のクリーンな中心都市」へと舵を切りました。その象徴として、かつて闘犬場や荒くれ者たちが集まった鳩が丘に近代的な市役所が建てられたのです。母方の祖父が炭鉱夫から助役にまで上り詰めた時期は、まさに街自体が「荒々しい炭鉱街」から「近代的な行政都市」へと脱皮する、激動の過渡期だったはずです。

 

3. 歴史の交差点としての岩見沢

当時の古地図や写真を見ると、以下の2つの世界がわずか1〜2キロメートルの距離の中で隣り合っていたことがわかります。

1. 駅前の一条通: お父様側の祖父がテキヤとして立ち回り、炭鉱夫たちの欲望と現金を循環させていた、エネルギーの底流。

2. 高台の鳩が丘: 母方のお祖父様が炭鉱から這い上がり、やがてペンと法律を持って、この巨大な炭鉱都市の舵取り(助役)を行った場所。

現在、岩見沢駅のすぐ近くには、当時の記憶を保存する「そらち炭鉱の記憶マネジメントセンター」という施設があり、当時の写真や、それこそ当時の盛り場の雰囲気を伝える貴重な資料が展示されています。

お二人の祖父が、この狭い岩見沢の街で、それぞれの方法で「頂点」を極めていたと思うと、すたれてしまった現在の風景の見え方も変わってくるのではないでしょうか。

いつか北海道を訪れた際、1条通から鳩が丘への道を歩いてみるだけで、お二人の生き様が五感で感じられるかもしれません。




AI気象モデルによると、6月上旬に「3つの台風」が連続して日本を直撃する可能性あり

もし、このようなことになるとすると、6月としては非常に珍しいですね。