こんな方がいらっしゃるんですねえ。
千葉真一からの直筆出演依頼も公開!山口組で唯一の元女組長が明かす「極道人生30年と大物俳優の絆」
FRIDAY 2023/11/30
自身の半生を振り返る小田切さん。極道を引退後に会員制の割烹料理店を開店。多くの人に愛されている。
山口組で唯一の女組長――。
そんな肩書で語られる数奇な人生を歩んだ女性がいる。その名は小田切波さん(71)。福岡を拠点とする三代目山口組伊豆一家龍我会の元会長で、ヤクザ全盛だった激動の時代を歩んできた。
極道を引退して、約16年。その半生をひも解くべく取材に訪れると、一枚の写真(2枚目)を見せてくれた。映っているのは名優・千葉真一さん(享年82)だ。
「銀座のクラブで飲んでいると、知り合いの社長が千葉さんと一緒に来られて、同席したのが始まりでした。千葉さんとは長年の友人。亡くなる2ヵ月前に電話を頂いたのが最後でしたね」
千葉さんは小田切さんに「映画を作りましょうよ。波さんをモデルにした映画を」と映画制作を打診していたという。話が具体的に動き出したのは’07年。千葉さんは小田切さんに手紙をしたためた。綴られていたのは映画への並々ならぬ情熱だった。
〈″愛と感動″これこそが私の求める映画作りへの根源でありテーマなのです〉
「このお手紙を拝見して制作を承諾したんです。千葉さんは『ヤクザ映画ではなく、母と子の愛の物語を描きたい』と言い、晩年は『波さんの役を演じ切る女優がいないから困った』ともおっしゃっていた」
映画のタイトルは『塀の中のおふくろ』。小田切さん自身、2度服役し、「子供が小さくてお母ちゃんがまだ恋しい時に、私は檻の中にいた。私は子不孝をして生きてきた」と語る。
結論から言うと、この映画が完成することはなかった。コロナ禍で脚本の聞き取り取材が中断。その間に千葉さんは帰らぬ人となったのだ――。
山口組田岡組長への直談判
映画の題材として千葉さんが渇望するほど、小田切さんの半生は強烈だった。ヤクザは暴力で支配する男社会。いかにして女性の小田切さんが、ヤクザの世界へと足を踏み入れたのか。
宮崎県で生まれ育った小田切さんは貧困ゆえ、周りから服装を馬鹿にされて、その度に喧嘩に明け暮れる毎日だった。それでも県内有数の進学校に入学。しかし2年生の途中で、またも服装を巡りトラブルが起きる。「けっして迷惑はかけません」との書き置きを残して、家出同然で宮崎を出た。まだ17歳のことだった。
「もともと歌が好きだったので、本格的なプロ歌手になりたいと思って、ギター片手に西日本を中心にクラブやキャバレーで弾き語りをして生計を立てていたんです。23歳で長男を出産してからもステージに立ち続けた。で、福岡・博多のクラブで歌っていると店長から、『一度うちのオーナーに会っていけ』と言われて挨拶をした。その方が伊豆健児組長でした」
伊豆組長は夜桜銀次事件(*1)などで名を揚げた山口組屈指の武闘派ヤクザだ。小田切さんは当時、24歳のシングルマザー。伊豆組長はその境遇を察したのだろう。「ウチの店で歌わないか」と100万円をポンとその場で支払ったという。のちに本当の父親以上に親父と慕った伊豆組長に、小田切さんはある思いを告げている。
「親分の恩義に報いるため、残りの人生を捧げようと思って盃(さかずき)の申し出をしたんです。でも、『女にできる稼業じゃない。女らしく家庭で幸せをつかめ』と拒否されました。親分は温厚で義理人情に厚い方でしたが、『ヤクザになりたい』と何度懇願しても許してくれませんでした」
小さい頃からやられたらやり返すほど、負けん気が強かった。歓楽街で男との喧嘩に明け暮れ、次第に小田切さんの周りには電話1本で駆けつける仲間が80人ほど集まっていく。小田切さんが26歳の頃、一大決心。一本独鈷(*2)の組織を立ち上げたのだ。
「龍我会の前身となる、愚連隊のような組織を作って事務所を博多の築港に構えたんです」
この頃、ヤクザの歴史を揺るがした、’78年の大阪戦争のベラミ事件(*3)が発生。小田切さんにとっても大きな転換期となる。ヒットマン・鳴海清の銃弾から奇跡的に一命を取り留めた山口組三代目田岡一雄組長の快気祝いのクルーズ船に、小田切さんは歌手として同船。その計らいは伊豆組長によるもので、「田岡親分はゴッドファーザーが好きだから、お前が歌えと呼ばれたんです」と明かす。
「歌い終えると、田岡親分がぶ厚い封筒の祝儀をそっと手渡してくれました。無言で受け取らずにいると、『ヤクザもんが1回出した物はもらっておけ』と言われたんですが、『お金はいりません』と答えました。すると親分が後に『何か欲しいもんはないんか? 歌手になりたいんか?』と聞くんです。親分に直接、『ヤクザになりたいです。山口組の代紋が欲しいです』と伝えると、『はぁ?』と驚かれました」
後日、再び伊豆組長の付き添いで田岡組長の本宅を訪問する機会に恵まれる。2度目の対面。妻の文子夫人も同席する中で「ヤクザになりたい」と直訴した。
「田岡親分から『ヤクザになるってどういうことかわかっているの?』と優しく言われました。『青い服を着るか、白い服を着る世界だぞ。そのぐらいの覚悟はあるんか。殺されるぞ』と時折、笑みを浮かべながら諭(さと)されました」
青い服とは刑務所の囚人服。白い服とは死に装束のことだ。だが、決断は揺るがなかった。「伊豆親分と同じ道に行きたいです」と告げると、部屋は静寂に包まれたという。
「面白い子やな。ワシが見届けするから、ヤクザの所作を教えて面倒見てやれや」
こうして’79年、小田切さんは田岡邸で伊豆組長の盃を受けた。
ナミ姐さんの血風録
以降、小田切さんは伊豆組長の実子である伊豆一家の伊豆誠一総長に面倒を見てもらい、正式に山口組の代紋を掲げるに至った。
盃を受けた瞬間から、自らに課した使命がある。恋人を作らず、独り身で生きていくことだ。自らも子供を産んだ実体験から親心がどんな親分よりもわかる。組員には自分の子供のように接し、龍我会では指詰めを禁じた。
「『(同門のヤクザから)女とヤクザやっとられんわ』なんてよく言われました。だから、何かあれば一番に駆けつけて、うちの子が一番に弾(はじ)く。すると段々と名前も売れてきましたね。私がなんでヤクザができたかというと、若い衆に守られて、神輿(みこし)に担がれたからできたんです」
謙遜するが、自身も常に身体を張ってきた。抗争中に他団体に攫わ(さら)れて福岡の油山で血祭りにあった経験もある。
「髪の毛も切られて、木に逆さ吊りにされて金属バットでドツかれたんです。意識がある10発目ぐらいまでは痛かったけど、その後は麻痺(まひ)して何も感じない。伊豆親分に助けられて、『一人で行動するなと言ったやろ。それでも、よう生きとった』と叱られました。その時は2ヵ月入院しましたね」
渡世で名を轟(とどろ)かす一方、刑務所にも2度収監。10年近くを檻の中で過ごした。そして’06年。55歳になる年に、長い懲役から帰ってきた龍我会組員の出所を見届けると、小田切さんは引退を決意した。
現在の小田切さんは大阪・心斎橋で完全予約制の割烹『味都 小田切』を切り盛りする。飲食店を始めて7年。暖簾(のれん)の向こう側には女将となった小田切さんが穏やかに見つめていた。
※1 ’62年1月16日、三代目山口組石井組組員・平尾国人(通称:夜桜銀次)が、福岡市内のアパートで射殺された事件。
※2 特定の団体の傘下に入らず、独立して組を運営している暴力団組織の意味。
※3 ’78年7月11日、京都のクラブ「ベラミ」を訪れた田岡一雄組長が、敵対する大日本正義団幹部・鳴海清によって狙撃された事件。凶弾は首に命中し、田岡は瀕死の重傷を負った。