パンデミック日記

NOFIA

メモと雑記

ペアである自分 - 宇宙が存在する場所

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※ 2011年01月に記したものに 2019年12月に手を加えた記事です。

外の宇宙が存在する場所としてもっとも近い位置はどこか

話があっちやこっちに飛びそうなので、最初に以下のことを書いておきます。これが「ペアである自分」という私個人の概念を考える上で、かなり大きな前提となりますが、それは、

「現実の宇宙に対応した宇宙はそれぞれの自分の体内に、観念的ではなく、現実に存在しており、そして、自分自身も「自分のペア」も、その体内の中にある宇宙にいる。

外に広がっている宇宙の姿は、自分の体内の中に存在する宇宙が投影されて、見えたり認識しているもの」

というような感じです。

もっと簡単に書くと、「多分、自分の体の中のどこかに実際の宇宙が存在している」ということです。

 

 

光子(フォトン)と量子テレポーテーションが提示する「ペア」の存在

どうして「自分の体の中のどこかに宇宙が存在しているはず」というようなことになったのかというと、「光の速度」の限界という問題と、そして、今のテーマである「ペアである自分」を強く感じるキッカケとなったひとつに、「量子テレポーテーション」というものがあります。

量子テレポーテーションは、すでに実用化への段階にもさしかかりつつあるほどの現実的な情報と物質の転送技術ですが、これは「何もないところに物を瞬時に移動させる」というような、子どもの頃にSF映画で見た(スタートレックのような)素敵なものとは違いますが、表面的には似たような現象となるかもしれません。これに関しては、2010年5月21日の WIRED VISION の日本語記事「16km間隔での「量子テレポーテーション」に成功」などがわかりやすいです。

そこからの抜粋です。

量子テレポーテーションでは、何かを別の場所に移すというのではなく、量子もつれの関係にある2つの粒子(光子やイオンなど)を利用する。量子もつれの関係では、互いが互いの状態に依存しており、相手の状態の影響を受ける。

要するに

「光子が2つ存在しないと、どちらも存在しない」

のです。

そういう「ペア」の性質を利用した転送技術です。

現在は情報の転送を目的としていますが、フォトン(光子)を利用しての転送という理論は、考え上だけなら、100パーセントの転送が成功した時には物でも情報でも何でも転送できるはずです。

技術内容はともかく、この夢のような転送にさえひとつの障壁が立ちはだかります。それは転送速度の上限が「光の速度」だということです。

量子テレポーテーション - ウィキペディアにはこうあります。

なお、このテレポーテーションによって物質や情報を光速を超えて移動させることはできない。

この「光の速度」というものは執拗に私たちの「夢」を壊し続けるようで、たとえば「あの星に暮らしたい」と思った星の距離が 500万光年先にあったとしたら、どうやってもその 500万光年という距離は不動であり、行って帰ってこられるとしても、1000万光年かかるのです。

物理法則の細かい点はよく知らないですが、その距離は距離として存在する。

たとえば、以前書きました埴谷雄高さんの夢想であり、人生の目的でもあった、「アンドロメダ銀河の兄弟との出会い」に関してもこの問題は出て来ます。

インタビューからの抜粋です。

「X埴谷」というのがここにいて、僕が見ている時は向こう(アンドロメダ銀河)からも見ている。僕が見ていると向こうからも同じように見ている。「宇宙の鏡」と同じで、僕が見ているということは、向こうからも見ているわけだ。

アンドロメダ銀河は地球から 230万光年の距離にありますから、今見ている向こうの兄弟が自分を見たのは 230万年前ということになります。その頃はまだ見られている(今の)自分は存在していなかったはずです。

そして、それに対して、地球からアンドロメダの兄弟にレスポンスしても、向こうにそのアクションが戻るのは 230万年先。何十回か繰り返していると、こちらの銀河系の年齢ほどの何十億年ということになりかねない。

埴谷さんの長編小説「死霊」の「夢魔の世界」という章では、埴谷さんのテーマである「完全な自由」が描かれようとします。

これは社会的な自由のことではなく、「存在の自由」のことで、ここでは、人間が、時間と空間と重力から解放されるだけではなく、「AはAである」という同一律からさえ解放されて自由になる(生物とか物質とかの差もないという概念を描き出そうとします。

ここに出てくる「夢魔 (むま)」というのは一瞬で他の宇宙(?)から「その人の思考に乗って」やって来る「虚体」という「実体の反対の存在」なんですが、「一瞬」といっても、やはり上記した光の速度の問題があるはずで、たとえば、埴谷さんの好きだったアンドロメダからだと、夢魔でさえ「一瞬」では来られない。

ちなみに、私は、「この世にコアが存在しないものはない」と考えています。つまり、物だろうが思考だろうが、「何かが存在する」ということです。無はこの世に存在しない(そうでないのなら、すべてが無であるかどちらか)と考えています。つまり、この世というものは「無」と「有」は同時に混在しないと。

そうなると、他の宇宙との一瞬の行き来でも、その往来には物理の法則を適用する他はなくなります。

仮に夢魔が光の速度で移動できる存在であっても、その往来が数キロ、数十キロなら光の速さで瞬時に移動できても、数光年だと数年、数万光年だと数万年かかってしまい、「瞬時」にならない。

あるいは、世の中には幽体離脱とか臨死体験などの話も多くあり、その中には「体から抜けた自分が銀河を越えて地球を見ていた」というような話もあります。たとえば、幽体離脱していた時間や臨死体験の時間が3時間だったとします。その間に、宇宙に行って、その後地球に戻ってきたと。

しかし、現実にはどんなにがんばっても(幽体でも思考でも)3時間で銀河を越えて地球に戻ってくることはできない。

幽体であろうと何であろうと、存在はすべて物理の法則から本来は逃れられないと考えるのが私の基本的なスタンスですが、しかし、世の中にはその物理の法則を無視した現象や体験が確かに存在する

どうしてなのか?

あるいは、埴谷さんの「アンドロメダ問題」はどうすればクリアできるのか。

ここが出発点なのかもしれません。

注釈として書きますと、私は、この埴谷さんが言っていたことを抽象論や夢想論としてとらえておらず、「現実」だと考えているので長くなっています。

単なる抽象論なら、「人にはいろいろと考えがあるから」だけで終えることができます。また、埴谷雄高という作家は抽象論など語らない人です。政治論から「存在の革命」まですべて具体的な指針に見えます。「死霊」という小説は現実小説であり、一種の「実現可能な近未来小説」だと私は思っています。

メキシコの目のない魚が光を感知する方法

ここまでの流れとはあまり関係のない話かもしれないですが、これらの問題を考えるには「見る」という概念自体も考える必要が出てきます。

この「見る」という問題については、かなり長くなると思いますので、具体的な話は、別の時に書きたいと思いますが、参考になる記事の翻訳記事を少し。

地球上の多くの脊椎動物で、「見る」という行為は、眼だけではなく、脳にある松果体という器官で「見る」という行為が一般的だと思われており、一部の動物では視覚よりも多く松果体でものを見ていることがわかりつつあります。

2008年に米国メリーランド大学のヨシザワ・マサト氏と、ウィリアム・ジェフリー氏の2名の科学者が、メキシコの洞窟に住む目のない魚を研究し、目がないこの魚たち、つまり「見るための目という受容体がない」この魚たちがどうして光を感知しているのかということに関して、脳の松果体が直接光を感じとっていると結論付けたという研究発表がありました。

以下は、昨年の7月に Epoch Times で紹介されていたものを訳したものです。眼や松果体を切除されたりと魚には気の毒な実験ながら、「眼で見る機能をほとんど必要としていない生物たち」の事実は興味深いです。


Blind Fish Sees With the Pineal Gland
The Epoch Times 2010.07.03

目の見えない魚たちは松果体で見ている

mexico-fish.jpg

メキシコの淡水に住む熱帯淡水魚には2つの種族に属するものがいる。
ひとつは、陸地の川に住んでいる目を持つ種類。もうひとつは、洞窟の中に住んでいるもので、こちらの種類は目を持たない。

この目のないメキシコの淡水魚は、眼原基(目の前段階のもの)自体は、胚として成長するが、その眼原基は幼生の時にウロコで覆われることにより退化してしまうために、器官としての目にはならない。そのため、彼らは目を持っていない。

これまで、目を持たないこの魚は光を感じ取ることはできないと思われてきたが、メリーランド大学の研究者たちが2008年に「ジャーナル・オブ・エクスペリメンタル・バイオロジー」紙に発表した研究論文によれば、「別の方法で見ている」ことが明らかとなった。

この魚の目は機能していないが、脳の中央近くにある松ぼっくりの形をした内分泌腺の「松果体」で光を検出していることがわかったのだ。松果体は皮膚の奥深くにある器官であるにも関わらず、この器官で光を感知できているという。

この松果体は、いくつかの脊椎動物では「第3の目」としての器官として知られているという。

実験は、メキシコ・パチョン地区の洞窟魚とティナジャ地区の洞窟魚、そして陸地の川に住むそれぞれの集団が実験に使用された。実験は、陸地の川の魚と洞窟の両方の魚の幼生に、プラスチックで仕切った空間の中で、3分間、光を当てた。その後、光を遮って、水面に泳いで上ってくる魚の数を数えた。この影に対しての反応は、若い幼生の魚が、水面に浮かびながら物陰に隠れて捕食者から逃れるための行動だという。

この実験は7日間のあいだ、一日に一度繰り返し行われた。
受精後 1.5日後には 60から 70パーセントの洞窟に住む魚たちが、この影への反応を見せた。陸地に住む魚では、約 50パーセントがこの反応を見せた。

そして、興味深いことに、ティナジャ地区の洞窟に住む目を持たない魚は、陸地の川に住む目を持つ魚よりも多く影に対しての反応を見せた。この結果は、光を感じる能力は目を持つ表面魚と目を持たない洞窟魚の両方に存在していることを示す。

幼魚が何を頼りにして影を感じることができるのかを突き止めるために、研究者たちは、魚の松果体、片眼、あるいは両方の眼を取りのぞいて実験を続けた。両眼を取り除かれた陸地の魚と洞窟の魚は両方が従来と同様の振舞いを示したが、松果体が取り除かれた魚では、約10パーセントの魚しか影への反応をしなかった。

研究者たちは、松果体が影への反応行動の重要な要素であるとした。そして、松果体だけで光を検知できているわけではなく、松果腺とそれに反応する運動系との神経連絡システムが存在すると結論づけた。


 

ここまでです。

これは、彼ら眼を持たない魚が、目で光を見ているわけではないけれど、彼らが見ているものは決して夢や想像だけではなく、「光」という現実を松果体により見ていることを示します。

pine-foton.jpg

▲ 人間の松果体の位置。トップハンド・トルク

 

松果体というのは脳の中央線上に位置する器官ですが、医学的な意味では、メラトニンというホルモンを作り出すことに関与していること以外の役割はほとんど不明です。ただ、思想ベースでは古くから語られてきたようで、Wikipedia にこうあります(抜粋)。

デカルトはこの世界には物質と精神という根本的に異なる二つの実体があるとし、その両者が松果体を通じて相互作用するとした。

デカルトは松果体の研究に時間を費やし、そこを「魂のありか」と呼んだ。

松果体が人間の脳の中で左右に分かれていない唯一の器官であると信じていたためである。松果体に関するほかの理論としては、流体を放出するバルブとして働いているというものがあった。手を頭に当てて思索を行うと、そのバルブを開くことができると考えられていた。

松果体は、ヨーガにおける6番目のチャクラ、または7番目のチャクラと結び付けられることもある。松果体は眠っている器官であり、目覚めるとテレパシーが使えるようになると信じる人もいる。

ニューエイジ運動の初期の指導者であるアリス・ベイリーのような作家は、精神的な世界観において「松果体の目」を重要な要素としている。

 

 

無数の太陽、無数の月、・・・そして、ペアのオレ

さて、長くなってきて、読み返してみると、最初のほうと後が繋がっていないので、何だかバラバラに感じます、どちらも「ペアである自分」というテーマには大事だと思って書き並べてしまいましたが、今回のここまでのところをまとめてみますと、

・量子テレポーテーションが提示する「ペア」の概念
・光の速度に対処するにはどうすればいいのか(という疑問)
・見ることとは何なのか(松果体)

ということがここまでの3つのテーマでした。
いつかはこのすべてがひとつにつながると・・・思います(ホントかよ)。

ちなみに、「ペア」という概念に対抗するものとして、「複数」という概念があります。もちろん、「ひとつ」という概念もあるでしょうが、それは難しそうです。

すなわち、

・宇宙にはもう1人自分の存在がいる(ペア)

・宇宙にはたくさんの自分と同じ存在がある(複数)

この選択肢の中で、どうしてペアなのかということも考えなければいけないのかもしれません。

「ペア」というのは私の感覚的な部分が大きいですので。




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