「二十代ソング」カテゴリーアーカイブ

二十代によく聴いていた曲(66) キング・クリムゾン – 太陽と戦慄 パートII(1973年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

King Crimson – Larks’ Tongues in Aspic, Part Two (1973)

このコーナーの前回の記事「二十代によく聴いていた曲(65)」で、北海道の美唄(びばい)というところにある高校の人たちのバンドに、「バンドに入ってくれたら、シンセあげるよ」という物質的な誘惑に負けて、そのバンドに入ったことを書いたのですが、彼ら…というか、少なくとも、リーダーの人が最も好きだったのがキング・クリムゾンだったんですよ。

ある日、練習場に行くと、

「練習曲はさ、キング・クリムゾンにする」

と彼が言います。

私は、

「なあ、勘弁してくれよ。キーボードとか異様に難しそうな気がするから」

と言いましたが、「これで行きます」と。

それで、最初に練習曲として持ってきたのが、1973年のキング・クリムゾンのアルバム『太陽と戦慄』にある「太陽と戦慄 パート II 」という曲だったんですね。

私 「こんなの、キーボード入ってないじゃないかよ」
彼 「途中でメロトロン(磁気テープを再生して音楽を演奏するキーボード楽器)が入るんだよ」
私 「それをこんなチンケなシンセで再現しろってかよ」
彼 「まあ、そう」
私 「練習曲は、もっと簡単な曲にしようよ。ナックのマイシャローナとか」
彼 「それはキーボードが入らないから」
私 「オレがずっと休んでいられるから、いいじゃないか」

しかし、事態は淡々と進行していき、「こんな変なバイオリン、どう再現するんだよ」とかの私の言葉も消えて、練習曲で、この曲を(稽古場だけで)何度も演奏しました。

オリジナルは以下の曲です。

その後も、「イエス(というバンドがありました)を練習曲に」とか、いろいろと言ってきましてですね。

私 「リック・ウェイクマンの弾くフレーズが、オレに弾けるわけないだろ」

とか言ってました。

家に帰って、ずっとプログレのキーボードの練習をしている私。

しかし、まあ、彼らは音楽には真面目な人たちでした。




二十代によく聴いていた曲(65) ローランド SYSTEM-100で演奏したジェフ・ベックのレッド・ブーツ(1976年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

Jeff Beck – Led Boots (1976)

以前もどこかで書いたことがあるような気もするんですけれど、北海道の高校生だった頃に、私は他の学校の人たちのバンドに入っていたんです。

そのキッカケは…北海道の岩見沢という場所で、高校生たちのバンドかなんかが集まるフェスティバルかなんかで、私は一緒にやったのが誰だか覚えてもいないんですが、キーボードで参加していたんです。

そのコンサートが終わり、それが行われた岩見沢の市民会館というところの食堂で、一人でカレーライスを食べていたんですね。カレーライスが一杯 200円という時代で、ラーメンも 200円でした。ただし、カツ丼は…(価格の詳細はいいから)。

カレーを一人で食べていると…それにしても、ライブの後に一人で食べていたということを考えると、本当に縁のない人たちとのライブだったのかもしれないですが、よく覚えていません。

とにかく、カレーを食べていると、前に、タンクトップの筋肉隆々の男性が立っているんです。髪型は、GIカットか、あるいは昔のヤクザの髪型でしょうか。

その人「ああ、オカくん?」
私  「いやどうも、すみません、お金はないんですよ、カツアゲなら他の人に…」
その人「そうじゃなくて」
私  「ああ、違うの? なんだよ、誰?」
その人「オカくんさ、さっきのステージでキーボード弾いてたでしょ」
私  「ああ、まあ。そもそも、なんで名前知ってる」
その人「人にきいた」
私  「ルックスから何から全体的に、あんたコワいぞ」
その人「いやまあ、うちのリーダーがさ、あの演奏が気に入ったって言ってさ」
私  「だから、金はないって言ってるだろ」
その人「カツアゲじゃねえよ」
私  「あんた、こわいし」
その人「だからさ、リーダーがさ、話をしたいって」
私  「リーダーって誰だよ」
その人「今日は用事があるから車で帰ったけどさ」
私  「あんたら高校生だろ?」
その人「ああ」
私  「いい加減にしろ、高校生が車で移動するのは」

とか何とか言いながら、結局、その人と北海道の美唄(びばい)というところまで行ったのです。

彼は、バンドのドラムの人でした。

その人「車、待たせてあるから」
私  「だから、高校生がいい加減にしろ」

それで、そのリーダーの人と会いまして、彼が言うには、「いいキーボードの人がほしいんだよ」と。

私  「いやあ、オレは訳のわからない人たちとは付き合いたくないし」

と言うと、そのリーダーの人が何か持って来て、「これ知ってる?」と言うのです。

もちろん知っていて、当時の私にとっては伝説のシンセサイザーであるローランド SYSTEM-100 というものでした。以下のシンセサイザーです。

ROLAND SYSTEM-100 Model-101

私   「これ…」
リーダー「バンド入ってくれれば、これあげるよ」
私   「あげる…? えーと、あげるというのは、金銭的な授受がない状態で物品が譲渡されるということですか?」
リーダー「よくわかんないけど、バンド入ってくれれば、これあげるよ」
私   「…………………」
リーダー「だって、買ったのはいいけど、結局使い方わからなくて」
私   「あんた、これいくらするのか知ってるのかよ」
リーダー「買ったから知ってるよ」
私   「あー…では、バンドに入れさせていただきます」

と、物質的な欲望に負けて、そのバンドに入ることになったのでした。

しかし、時代でいえば、そんな大した金額ではないのかもしれないですけれど、数万とかではないですからね。

手に届かない金額のものだったんですよ。

このリーダーは、地元の不動産会社の社長の息子で超ボンボンだということを後に知るのですが、でも、いい人でしたねえ。純粋な人でした。お金のことは全然わからなくて、好きに使いまくるボンボンでしたけれど。

そのバンドが最初にやったライブの冒頭の曲が、ジェフ・ベックさんのレッド・ブーツだったんですね。

結構、キーボードには難しい曲で、夜中にもずっと練習していました。というより、そもそもシンセサイザーの使い方を知るためにずっと操作していました。徹夜とかよくしてましたしね。

以下はオリジナルの曲です。今でも懐かしいです。

私は、その後、東京に出ることになって、バンドと離れます。メンバーとは全員、音信不通です。

彼らはみんな、いわゆる不良の高校みたいに言われていた学校の人たちでしたけれど、みんな家は裕福だったし、性格も穏やかな人ばかりでした。今もおそらく、楽しく生きていると思います。

これに限らず、音信不通の人は多いですね。携帯のない時代でしたので、ある意味でこれが普通です。




二十代によく聴いていた曲(64) ミニストリー – ドリーム・ソング(1989年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

Ministry – Dream Song(1989)

先ほど投稿したリンク・レイさんのジャック・ザ・リッパーの映画での画像で今日を終わらせるのもどうかと思いまして、二十代に最も敬愛した音楽を載せて終わろうと思います。

ミニストリーというのは、インダストリアル・メタルバンドで、実際には、私が最も聴かないジャンルの音楽であったのですが、「二十代によく聴いていた曲(59)」に出てくる友人のヨシハラくんという人が、アルバムを持ってきてくれてですね。

「このアルバムのラストの曲なんていいと思うんですけれど」

と言うのです。

それで聴いたら、いいのなんの。

その後の self23 のオープニングで 3回くらい使いましたかねえ。

このアルバムの他の曲は、いわゆるインダストリアル・メタルのガーガーいう曲ばかりなんですが、これは本当に荘厳で、後ろでたまに入る声は、悪魔と女の子の会話みたいな感じだと思うんですけれど、いい曲でした。

せっかくですので、実際に舞台で使った時の映像がありますので、それを貼ります。1989年か 1990年頃の (細かい年代が今はもうわからないです)『鬼畜御殿』という舞台です。

記録用のビデオですので、音が悪いですね。アルバムの曲は以下にあります。

この曲と出会えたことは大きかったです。

音楽はどこまでも幅広く展開できるものなのだと知ります。

当時はいろいろな人がいい音楽を教えてくれました。




二十代によく聴いていた曲(63) リンク・レイ – ジャック・ザ・リッパー(1961年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

Link Wray – Jack The Ripper(1961)

この曲はですね…。二十代のときに本当によく聴いていた曲なんです。

こんな 1961年の曲なんていう、私が生まれる前の曲をどうして聴いたのかというと、実は映画のオープニングで使われていて知ったのです。その後に、レコードを探したと。

しかしですね…。

その映画のオープニングを貼っていいものかどうか悩むのですよねえ。

ピンク・フラミンゴ』という映画 (この映画のオープニングもリンク・レイのスワッグという曲)で有名なジョン・ウォーターズ監督の 1969年の『モンド・トラッショ』という映画のオープニングで使われているのですけれど、このオープニングがねえ。

しかし、この映画のこの部分で、この音楽をものすごく気に入ったということも事実ですし…。

このリンク・レイという人は、実際にはかなり著名な人で、このジャック・ザ・リッパーという曲も、当時のレコードジャケットで、YouTube にアップされているのですけれど、こんな下のようなジャケットですしねえ。


youtube.com

かっこ悪いでしょ(苦笑)。

それで、その映画『モンド・トラッショ』のオープニングが YouTube にありますので、貼ろうと思うのですけれど、覆面をした男がニワトリの首を斧で叩き落とすというシーンなんですよ (もちろんリンク・レイとは全然関係ない人です)。

ですので、見たくない方は、上の黄色のカッコイイほうのリンクで同じ曲が聴けます。

この曲を作ったリンク・レイというギタリストは、すごい人で、「世界で最初にギターを歪ませた人」なんです。

つまり、この人のその試みがなければ、ハードロックもパンクもヘビーメタルも何も生まれなかった。

日本語版の Wikipedia に以下のようにあるように、ロック界への貢献はすごい人だったんですよ。

> キンクスやザ・フーのメンバー、およびジミー・ペイジなどがこの曲 (※ ランブルという曲)からの影響を明言している。ピート・タウンゼントは「彼は王者だ。彼と『ランブル』がなかったら自分はギターを持たなかった」と述べている。

> 他にもジミ・ヘンドリックス、ジェフ・ベック、マーク・ボラン、ニール・ヤング、ボブ・ディラン、ダフ・マッケイガンらが、レイからの影響を認めている。 wikipedia.org

まあ、私の場合、見た映画に問題があったわけですが、それでも、リンク・レイのこの曲には惹かれました。

この映画を見たのは、二十代の中盤くらいでしたかね。今では、DVD もビデオもまったくないと思いますが、私は今でも VHS ビデオで持っています。

これは最低の映画といっていい映画で、評価できる部分はまるでない映画です…が、今もたまに見ることがあるという病的な世界の話です。




二十代によく聴いていた曲(62) タコ – 嘔吐中枢は世界の源(1983年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

タコ – 嘔吐中枢は世界の源(1983)

まだ東京に出てくる前でしたので、高校生の頃でしたかね。当時は自主出版的な『宝島』という雑誌を毎月買っていたんですよ。当時の宝島は面白い雑誌でした。

北海道の田舎の岩見沢という町でしたが、そこにあった書店に毎月入っていたんです。ただし、「3冊だけ入る」ような状況で。一度、発売日に書店に行くと売り切れで(まあ、3冊なんで)、それからは、発売日には注意深く本屋に行って、手にしていたんですが、音楽雑誌ではないですけれど、音楽のことも書かれている雑誌で、そこに頻繁に「タコ」というのが出てくるのですよ。

読むと、山崎春美という人(自販機本JAMの編集とかと関係していた人ですね)が主体のメンバーが不定のバンドでした。

その後、このタコがアルバムを出すということを知りまして、これも、何かの自主系の雑誌の広告で知ったのですが、「これは買いたいなあ」と思ったのですが、何しろ北海道の田舎のレコード屋にそんなものがあるわけはないのです。

そうしましたら…本の雑誌だったか、何だかの広告で「通販承ります」とありまして、それで購入したんです。何しろ、銀行振り込みだカードだの何だのない時代で、「現金書留」だけの時代です。つまり、封筒にお金を入れて送るのです。
それで、現金を送りました。

「本当に来るのかなあ」

と思いながら、2週間、3週間と何も音信がなく、「ああ、やっぱり詐欺的なのかなあ」とか思っていたんですが、おおむね 1カ月後くらいですか、アルバムが届いて。

そのアルバムがいいか悪いかはともかく、ありがたかったですね。

Wikipedia によると、以下のようなアルバムです。

> 1983年、坂本龍一、遠藤ミチロウ、町田町蔵、工藤冬里、上野耕路、宮沢正一、NON、川島バナナなど多彩なミュージシャンと山崎の歌詞とのコラボレーションによる1st.アルバム『タコ』 を発表。ピナコテカレコードからのリリースで、ジャケットは花輪和一と合田佐和子だった。『タコ』は自主制作盤としては破格のヒットを記録するが、アルバムに収録された「きらら」という曲の歌詞に差別的な表現が使われていたため、団体からクレームがつき自主回収・発売禁止となる。この影響でピナコテカレコードは年内解散に追い込まれた。 Wikipedia

どの曲が一番いいとかはないですけれど、「病んでるなあ」と思ったのはありました。ボーカルは篠崎順子さん(活動名:ロリータ順子)という方でした。彼女は、その後、25歳で亡くなってしまいますが(死因は諸説あります)、当時は、歌手の戸川純さんと同じくらいの人気を誇るアングラ・クイーンでした。

何かの雑誌に出ていた篠崎順子さん

アルバムに入っていたのは、この曲です。

病んだ曲ですけれど、歌詞は以下のようなものでした。

ロリータ順子 – 嘔吐中枢は世界の源

食べて 吐いて また食べて
吐いて 吐いて 吐き続ける

嘔吐中枢ぶっ壊れ
吐けずに 苦しい それでも食べる
そのうち ぶくぶく太りだす
しまいに ぶよぶよブタになる

自分の汚物が 自分の食事
楽しい お地獄

便器に アタマから 突込んで
吐いたものを 再び食べる

食べて 吐いて また食べて
食べて 吐くのか
吐くために 食べるのか

(略)

いろいろな人を私も見ましたけれど、何だか苦しい人たちは
確かにいます。




二十代によく聴いていた曲(61) ワイヤー – アイ・アム・ザ・フライ(1978年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

Wire – I Am The Fly (1978)

最近、昔の知り合いのことが、このコーナーに出てきますが、私は十代でいろいろと音楽を聴いていたような錯覚に陥っていましたけれど、東京に出てきてから知り合った人たちから、どれだけ音楽を聴かせてもらう機会があったか。

要するに、私は全然音楽を知らないボーイだったんですよ(ボーイかよ)。

東京の学校に行っていた時に、同じ学校の年下の知り合いだったミナミくんという、イケメンだけど、ややバカな男性がいまして、気が合ったせいもあり、よく行動を共にしていました。

彼の部屋には結構レコードがあって、「へえ」とか言って、よく聴いていたものでした。

ミナミくん自身の趣味といえば、外国人では、ザ・スミスとか、日本だと、ローザ・ルクセンブルグとかルースターズとか、そんなのが並んでいて、私としては、その後も聴くことのないようなバンドが好きでしたけれど、レコード棚を見ると、他にもいろいろなレコードがあって、そのたびに借りたり、その場で聴いたりしていました。

あるとき、ミナミくんの部屋でレコードを見ていましたら、以下のようなレコードがあったのですね。

私  「ほお…これは、ウィレっていうバンドかい?」
ミナミ「英語も読めないんですか。ワイヤーだよ」
私  「ああ、ああ、そうだった。ワイヤーね…本当にそう読むの?」
ミナミ「オカさんは少しは勉強しなさい」
私  「へえ、英語の読み方も変化したんだね。時代かねえ」
ミナミ「変化してないよ」

などと話しながらレコードをかけたんですが、何とも味わい深いものでした。

以下です。1978年の曲らしいですので、私が高校 1年くらいのときに出ていたものらしいですが、それから 6、7年経って初めて聴いたということになります。

ワイヤーは相当有名なバンドだったらしく、Wikipedia にもそれが書かれています。

当時、周囲にいた人たちは、本当にいろいろな音楽を聴いていたものだなあと感心するばかりでした。

情報があまりない時代は、自然と自分に近づいてくる音楽が自分の好きな音楽となっていったのかもしれません。




二十代によく聴いていた曲(60) ダイナソーJr. – Muck(1991年)

(コメント)最近、昔の知り合いなどと会うと、「初めて会ってから40年 (@_@)」ということに気づくこともありまして、自分も長いことないなあ、とか思う部分もあり、寝る前に思い出投稿をしようと思います。

Dinosaur Jr. – Muck (1991)

この音楽コーナーの記事を書くときは酔っている時が多く、場合によっては「何を書いたんだか、よく覚えていない」ということもあるのですが、前回投稿したマイ・ブラディ・バレンタインの曲のことも、翌日、「ああ、この曲のことを書いたんだ」と忘れていました。

この記事に、ヨシハラくんという人の名前が出てきました。

ヨシハラくん絡みで続けると、その後、何年か経った後、ヨシハラくんとホンマくんという人と私の 3人で、東京の西荻窪にデザイン事務所を持ったことがありました。

ヨシハラくんとホンマくんはグラフィックデザイナーでしたが、私はデザイナーでも何でもないですので、理由なく、そこにいたという感じでしたが、ヨシハラくんもホンマくんも仕事をしながら、音楽をずっとかけていました。

ある時、事務所に行ったときに、かかっていた曲が気になり、

「誰これ?」

ときくと、

「ダイナソー・ジュニアです」

「大納言・中納言?」

「違います。ダイナソー・ジュニアです」

とのことでした。

聞くと、ダイナソーJr. は、アメリカのバンドだそうで、「へえ、いいねえ」とか言いました。

そのとき、私が聴いたのは以下の曲でした。

ヨシハラくんは、そのアルバムをそのまま貸してくれたのですが、全体的に、落ち着いた気怠さが漂うような、安心して聴くことのできるアルバムでした。

ちなみに、当時のヨシハラくんが最も好きだったのは、アメリカのソニック・ユースというバンドで、私は、こっちはそんなに感銘を受けなかった記憶はありますが、いずれにしても、1980年代の終わり頃から 1990年代の最初の 1年、2年くらいまでは、音楽は良かった時代だったのかもしれません。

私にとっては、その頃がロックの終わりと感じていた時代でもあります。