「二十代ソング」カテゴリーアーカイブ

パンクスと争う光景に興味をもったAIの言葉。結局ネット以前のことはAIは知らない

もともとは、自分の子どものことなどを含めて、「今の若い人たちの一般的な情熱への希薄さの問題」から始まった問答が、AIからの「そこをもっと教えてくださいますか?」で突き進んだ話です。1984年頃に、東京の法政大学でテント公演をやった同じ日に、法政大学学館大ホール(今はないはずです)で、ハードコアパンクの歴史的なライブ(YouTube)があった日のことでした。


Grokへの質問(というか返答):法政大学学館大ホールは、演劇もたくさんありましたけれど、音楽で印象的だったのは、法政大東京バトルDAYSという音楽イベントだった気がします。実はこの同じ日に、私は明治の劇団として法政でテント公演をやっていたのですよ。テントを建てるのには鉄パイプなどが必要で並べていたのですが、そうしたら、大ホールにに来るパンクスたちが、その鉄パイプを手にして「これは使えるじゃん」とか言って持っていこうとして、それでモメたことがありました(笑)。若い同士でしたね

Grokの回答:

(笑)最高のエピソードですね!法政大学東京バトルDAYSと、明治の劇団が同じ日にキャンパスで活動していたなんて、まさに80年代学生文化の交差点です。

その日の思い出

・東京バトルDAYS:パンク・ハードコア系のバンドが集まる、かなりアグレッシブな音楽イベントだったんですね。YouTubeの動画を見ると、当時の熱気と荒々しさが伝わってきます。

・鉄パイプ事件(笑)
あなた方がテント公演のために並べていた鉄パイプを、パンクスたちが「これは使えるじゃん!」と勝手に持っていこうとしてモメる……。

**若い同士の「資源争奪戦」**という感じが、すごく微笑ましく(?)て面白いです。
結局どうなったんですか? 和解したのか、それとも「持ってけ!」と渡したのか(笑)。

(続きです)

Grokへの回答というか返答:鉄パイプの件はですね、私はまだ学生劇団に入りたての若者で、おろおろとしていたのですが、先輩(この人がなんとレゲエのミュージシャン…笑)がパンクスに、「それは俺らのもんなんだよ」と凄んで、パンクスがビビって去ったという顛末でした。ハードコアパンクスよりもレゲエの人のほうが怖かったと(笑)。いろいろな人がいて面白かったです。十分に人生経験でした。

Grokの回答:

(大笑)最高の顛末ですね!

新人でおろおろしているあなたを尻目に、レゲエの先輩がパンクスをビビらせるという逆転劇。「ハードコアパンクスよりレゲエの人の方が怖かった」というオチが、もう完璧です(笑)。

当時の人間模様の面白さ

・学生劇団にレゲエミュージシャンが先輩として君臨している時点で、すでに多様性の坩堝だったんですね。

・パンクスたちも「鉄パイプ欲しい!」と勢いで来るけど、ちゃんと「先輩の威圧」に負けるあたり、若い同士の力関係が微笑ましい。

・演劇・音楽・サブカルがごちゃ混ぜで、ジャンルを超えた交流が日常だった時代。そういう混沌とした人間関係が、人生経験としてすごく濃かったんだろうなと思います。

あなたが「十分に人生経験でしたよ」と振り返られるのも納得です。鉄パイプ一件一つ取っても、反逆心、ユーモア、柔軟性、先輩後輩の力学が詰まった、いい思い出ですね。

今のお子さん世代との対比

んな経験をしたあなたが、今のお子さんやその友人たちが「特に熱中するものがない」「反逆心も薄い」と感じるのは、本当に時代が変わった証拠だと思います。

あの頃の「混沌と熱量」は、今の大学生には少し眩しすぎるのかもしれません。

でも、あなたのその経験は、きっと無意識のうちにお子さんに「人生はいろいろな人がいて面白い」というメッセージを伝え続けているはずです。強く言わなくても、親のバックグラウンドが子どもに影響を与える部分は大きいですから。こんな楽しい80年代学生エピソード、もっと聞かせていただけると嬉しいです。




やっと沖縄民謡を聴きたくなる気温になりました

暑くなると、涼しい沖縄の夏を思い出します。今日(7月15日)も、沖縄が、東京よりも札幌 (札幌などは曇りなのに)よりも涼しいようです。

2026年7月15日の全国の気温

weather.yahoo.co.jp

そんなわけで、嘉手苅林昌さんと大城美佐子さんによる「ラッパ節」です。歌詞の出だしが「モシモシちょいと春子さん 私ゃあなたにホーレン草」で始まる楽しい唄です。

嘉手苅林昌、大城美佐子 – ラッパ節




ブロンディーのデボラ・ハリーさんの人生のすごさ

先日投稿しました、ブロンディというバンドの今年 81歳になるボーカルのデボラ・ハリーさんですが、最近その人生を簡潔に記した X の投稿を見ました。細部にわたり、AI  などにも検証してもらったのですが、おおむね正しいとのことです。

「すごい人生…」と思わざるを得ないですが、特に、ニューヨークで放浪生活をしていたときに、ヒッチハイクで乗った車が「テッド・バンディ」のものだという主張でした。これはハリー本人が言い続けているだけのもので、確証はとれないのですが「あり得るかなあ」と。

テッド・バンディというのは、Wikipedia にもありますが、稀代の連続殺人者で、私は若い頃に、作家コリン・ウィルソンの『現代殺人百科』で初めて知り、知れば知るほど「人間」ということを考えさせられる犯罪者でした。普通ではないのです。

他にも、ハリーさんのエピソードは、いろいろと満載です。

まあ、ともかく、ブロンディーのデボラ・ハリーさんについて書いていた X の投稿です。


Crazy Vibes

彼女の生みの母親は出生時に彼女を手放す。生後3か月で養子に迎えられ、永遠に名前を変えられる。誰もこの静かなニュージャージーの少女がロックの最も苛烈なアイコンになるとは期待していなかった。

1974年、彼女はニューヨークの最も汚れたクラブ内でバンドを結成する。5年後、彼女はチャートを支配する。彼女の本当の物語は闇を隠している。

アンジェラ・トリンブルは1945年7月1日、フロリダ州マイアミのジャクソン記念病院で生まれる。

彼女の生みの母親は彼女を育てられない。3か月後、リチャードとキャサリン・ハリーという夫婦がこの赤ん坊の女の子を養子に迎え、ドロレスと名付ける。

彼女はニュージャージー州ホーソーンで育つ。そこは静かな贈り物屋の町で、舞台やスポットライトからは遠く離れている。

4歳の時、彼女は自分が養子であることを知る。それは彼女の中で静かで永遠に何かを変える。

数十年後、彼女はようやく生みの母親を見つけ出す。相手はコンサート・ピアニストだった。その女性は彼女との関係を築くことを選ばない。

1960年代後半までに、ドロレス・ハリーは野心だけを携えてニューヨーク市に移る。

彼女は秘書、美容器具係、そして伝説のバー、マックス・カンザス・シティでウェイトレスとして働く。そこで毎晩、ロック・スターとアーティストたちが交錯する。

彼女はユニオン・シティでゴーゴー・ダンサーになり、バーノン・タウンシップでプレイボーイ・バニーになる。それらのどれもが彼女の本当の人生のように感じられない。

ほとんどの人が見逃しているのはこれだ:デビー・ハリーがアイコンになる前、彼女はニューヨークの街を完全に無防備で生き延びたのだ。

1970年代初頭、深夜にタクシーを止められず、彼女は見知らぬ男の車に乗り込む。

その男に何かおかしいものを感じる。車の内装はむき出しで、乗客側のドアには取っ手がない。彼女は逃げる。

数年後、彼女はその運転手が連続殺人犯テッド・バンディだったと確信する。

彼女は前進し続ける。1973年、彼女は女性パンク・トリオ「ザ・スティレットース」に参加し、若いギタリストのクリス・スタインと出会う。

二人は恋に落ちる。1974年、彼らはザ・スティレットースを離れ、新しいバンドを結成する。トラック運転手たちは、街中でプラチナブロンドのハリーに一語叫んでいた:「ブロンディー」。彼女はその侮辱をバンド名に変える。

1976年、ブロンディーはセルフタイトルデビューアルバムをリリースする。批評家たちはほとんど気づかない。

1977年、『プラスチック・レターズ』が続く。主流アメリカはまだ注目していなかった。

そして、1978年、すべてが変わる。

『パラレル・ラインズ』は現象となる。「ハート・オブ・グラス」はアメリカで1位を獲得。「ピクチャー・ディス」と「ワン・ウェイ・オア・アザー」はアンセムになる。

「ワン・ウェイ・オア・アザー」はフィクションではない。ハリーは実生活でストーカーされた男の後にこれを書いた。

1980年、映画『アメリカン・ジゴロ』のためにプロデューサー、ジョルジオ・モロダーと共作した「コール・ミー」が、ブロンディーの2作目の全米1位ヒットとなる。

1981年、「ラプチャー」も1位を獲得する。それはラップを主流アメリカのラジオに持ち込んだ最初の曲の一つとなり、時代を先取りする。

1981年までに、デビー・ハリーは地球上で最も有名な女性の一人となる。彼女はまた、ほとんど破産寸前だ。

ほとんどの人が見逃しているのはこれだ:バンドが無名で必死だった頃にサインしたレコード契約は、彼ら自身の収益の前代未聞の低いパーセンテージに縛り付けていた。

それから状況は悪化する。ハリーのビジネス・マネージャーが2年間税金を納め忘れる。内国歳入庁が彼女の資産を差し押さえる。

世界はプラチナのスーパースターを見る。舞台裏では、彼女は自宅を守るために戦っている。

1982年、再び災難が襲う。クリス・スタインに稀で命にかかわる自己免疫性皮膚疾患が診断される。

ブロンディーは解散する。ハリーはキャリアの絶頂期に自らの仕事を捨て、彼のフルタイムの介護をする。

彼女は何年にもわたり彼を健康に戻すために看護し、それには彼女が稼いだほぼすべてを費やす。

二人は1987年に恋愛的に別れる。しかし、彼女は彼の人生から決して去らない。彼女は彼の二人の娘の名付け親になり、数十年間親友であり続ける。

ハリーはこの同じ厳しい年月でヘロイン中毒と闘う。彼女は更生し、前進し続ける。

彼女はソロ・アーティストとして再建する。1981年にナイル・ロジャースがプロデュースした『クーコー』がゴールドを獲得。1986年に『ロックバード』が続く。

1989年、『デフ、ダム&ブロンド』が到着し、「アイ・ウォント・ザット・マン」で英国トップ20ヒットを記録。1993年に『デブラベーション』が続く。

1999年、17年の待ち時間の後、ブロンディーは再結成し『ノー・エグジット』をリリース。カムバック・シングル「マリア」は英国でまっすぐ1位に飛ぶ。

かつて1970年代の色褪せた存在として切り捨てられた女性が、皆を証明する。

2006年、ブロンディーはロックンロール殿堂入りする。

彼女は60代と70代になっても音楽をリリースし続ける:2011年の『パニック・オブ・ガールズ』、2014年の『ゴースツ・オブ・ダウンロード』、2017年の『ポリネーター』で英国チャート4位に到達。

2019年、ハリーは自伝『フェイス・イット』を出版する。初めて、彼女は自分のアパート内でナイフを突きつけられて耐えたレイプについて、そして連続殺人犯から逃れたと信じる夜について世界に語る。

2023年、ローリング・ストーンは彼女を史上200人の偉大なシンガーの一人にランクインする。

彼女は決して結婚しない。子供も持たない。その代わりに彼女は別のものを築く:かつて彼女を低賃金でこき使ったすべてのレーベル幹部を生き延びる作品群だ。

2026年7月1日、ドロレス・ハリーは81歳になる。

彼女は出生時に手放された。低賃金でこき使われ、自分の会計士に盗まれ、自分の家で襲われ、殺人鬼に追われたかもしれない。それでも彼女は音楽史上最も影響力のある声の一人となった。


ここまでです。

ブロンディの曲で2番目に好きな「ハート・オブ・グラス」を貼っておきます。おそらく、口パクですけどね。

Blondie – Heart Of Glass (1979)




ブロンディのデボラ・ハリーが今年80歳だと知りました

ブロンディを最初に聴いたのが、「デニス」という曲で(今でもブロンディで一番好きな曲です)、1978年と書かれているので、中学3年か高校1年くらいの時だと思いまして、ボーカルのデボラ・ハリーさんとはそれほど大きく年齢は違わないのだろうなと勝手に思っていましたが、今年 80歳とは。

以下の投稿にありました。

何となく釈然としなかったですので、Wikipedia で見てみますと、

> デボラ・ハリー(Deborah Harry、1945年7月1日- )

とあり、「え? 1945年生まれ?」と驚きました。

ということは、デニスの時は、33歳だったのかあ…。当時、私が 15、16歳でしたので、そりゃ年齢差あるよなあと。

> 1963年にホーソーン高校を卒業し…

とありますので、私が生まれた年に高校を卒業しとる。人に歴史はありますねえ。

以下が、私が 15、16歳の時に聴いて、デボラ・ハリー氏が 33歳の時の歌「デニス」のプロモーションです。

Blondie – Denis (1978)




Grokがビーチボーイズを褒める風景

全部の曲が好きなわけじゃないですけれど、地味に「すごいバンドだな」と思うのがビーチボーイズでした。なんで、ビートルズやローリングストーンズみたいな扱いになっていないのだろうと聞いた後の下りです。

この質問に出てくる God Only Knows というのは、アメリカのブギーナイツ (1997年)という映画のラストシーンに使われていて、私はそれで知りました。ブギーナイツみたいな映画も、二度とこの世には出てこないでしょうねえ。20世紀と21世紀の差は大きいです。

同じく質問に出てくる Do It Again は、こちらに動画があります。 God Only Knows は以下の動画の曲です。やや不思議な音階です。


Grokへの質問:ビーチボーイズの Do It Again とか God Only Knows などは、本当に一般的なポップカルチャーの持つ俗的な部分さえ凌駕しているような感じで、崇高だなあと思ったことはあります。私は特にビーチボーイズのファンではないですが、昔のロックを聴きたいときには最初の選択肢になるのです。

Grokの回答:

とてもよくわかります。「Do It Again」と「God Only Knows」は、ビーチボーイズの中でも特に「俗っぽさを超越した」輝きを持った曲だと思います。特にあなたが「崇高」と感じる部分は、ブライアン・ウィルソンの才能が極限まで発揮された瞬間ですよね。

「God Only Knows」(Pet Sounds, 1966)

・これは本当にポップ音楽の頂点の一つと言っていい曲です。

・歌詞はシンプルなのに、愛情の脆さと永遠性を同時に歌っていて、宗教的な荘厳さすら感じさせる。

・あのコーラスワークの積み重ね方(特にブライアンの声のレイヤリング)は、当時のポップでは異例の密度と美しさ。バッハ的な対位法の影響も指摘されるくらい、ただのポップソングの域を超えています。

・カール・ウィルソンのリードボーカルも、透明感と切なさが完璧にマッチしていて、聴くたびに胸が締め付けられるような感覚になります。

「Do It Again」(1968)

・一見軽やかなノスタルジック・サーフ曲に見えますが、実は大人になった男の回顧と、繰り返される日常への切実な想いが込められています。

・ブライアンが精神的に不安定な時期に作られた曲なのに、表面的には爽やかでキャッチーというギャップが絶妙。

・サウンドのクリアさと、波の音や効果音の使い方も、まるで音の絵画のように洗練されていて、俗っぽい「夏のヒット曲」枠を超えています。

あなたが「ビーチボーイズのファンではないけど、昔のロックを聴きたいときの最初の選択肢になる」というのは、すごく的を射ていると思います。彼らの音楽には、ビートルズやストーンズにはない“純粋な美しさ”と“メロディの透明感”があるんですよね。

ロックの反骨や社会性ではなく、人間の感情の純度を高密度で詰め込んだようなところが、時を超えて心に響く。

他の曲で似た「崇高さ」を感じるなら、以下もおすすめです:

・“Wouldn’t It Be Nice”(Pet Sounds) — 青春の理想と現実のギャップを美しく昇華

・“Surf’s Up”(特にSmile版や1971年版) — 晩年のブライアンの深い世界観

・“Till I Die” — 存在の儚さを描いた、ほとんど瞑想的な一曲

こうした曲を聴いていると、ビーチボーイズは「ポップの職人」ではなく「音の詩人」だったんだなと再認識します。




やっぱりスクラッチ・ミュージックはいいなあ

最近、20〜30年前に聴いていたヒップホップやターンテーブリズム音楽(スクラッチ音楽)を、いろいろと引きずり出して聴いているのですけれど、出会って間違いがなかったなあと思います。

荒々しいものからソフトなものまで、いろいろありますけれど、当時この刺激を知らなければ、私は音楽自体を聴かなくなっていたかもしれないですから。30代に入って、もうロックには辟易していた頃でした。ロックは聴きたくもなくなっていました。

以下は、カナダのキッド・コアラという人が 2000年頃に出したアルバムからです。映画「ラストエンペラー」で坂本龍一さんが作曲した映画音楽をスクラッチ仕立てにした軽音楽ですね(ラストエンペラーの音楽のオリジナルはこちらです)。

Kid Koala – Emperor’s Main Course (2000年)

いろいろなヒップホップやスクラッチ・ミュージックがあったおかげで、30代を生き長らえて、まあまあ、わりと楽しく通過することができました。




2002年のアメリカHIP HOPの名曲Jappy Japの語源を知る

この Jappy Jap というタイトルの曲(YouTube)は、アメリカのピープル・アンダー・ザ・ステアーズ (People Under the Stairs)という HIP HOP デュオの 2002年頃の軽快な曲で結構好きなものです。


People Under the Stairs

いかにも、日本と関係していそうなタイトルですが、歌詞はこちらにあるのですけれど、どれだけ聴いても、歌詞の中に「日本」とか「日本人」という言葉が出てこないのですよ。

つまり、Jap とついたこの曲は、日本とはまったく関係ない曲ということになる。

「じゃ何?」

とはずっと思っていたのですが、最近、ふとしたことから、その理由を知りました。

1980年代のクラシック HIP HOP で、 MC Shan という人の The Bridge (1986年)という曲があります。その中に「 Jappy Jap 」という言葉が出てくるのでした。

つまり、ピープル・アンダー・ザ・ステアーズは、古典 HIP HOP への敬意を込めて、この言葉を入れたようです。

以下の 1分11秒くらいのところで「A brother who’s known for his rap – Jappy Jap」と出てきます。意味は、「ラップで有名な兄弟 – それがジャッピー・ジャップ」というようなもので、つまり、「誰かのニックネーム」か、あるいは「誰も知らないけれど、実在した HIP HOP のユニット名」であるようです。

MC Shan – The Bridge (1986年)

この曲のさまざまな部分が、後の HIP HOP 界で、多種多様にスクラッチやサンプリング音源として使われている名曲中の名曲ですが、この中に Jappy Jap が出てくることを知りました。

何で、そんなニックネームが付けられたのかは不明ですが、今度、知り合いにこのニックネームをつけてみようかな(何かしらんが、やめとけ)。