映画『薔薇の名前』を観ながらAIと会話していて「悪魔は昔から、神さまのコマーシャルなんですわ」を思い出す

『薔薇の名前』は、若い時から何度見ているのかわからないくらい好きな映画なんですが、今日も何だか眠れなくて見ていたんです。(どうでもいいことですが『薔薇の名前』って、アマゾンではほとんど売られていないのですね。中古しかないです)

この映画は中世の修道院の話ですが、主軸は「笑いを許さない」というところにありました。そのラストあたりで、長老(アリストテレスの喜劇が書かれているページを読んだ人たちが死ぬことを画策した人)が、

「笑いは恐怖を殺す。悪魔への恐怖がなければ、神の必要性もなくなる」

というんですけれど、この「悪魔」と「神」の対比が、1970年代の小説『エクソシスト』で、悪魔に取り憑かれた少女リーガンの母親が、悪魔払いが終わった後のエピローグで以下のように言うんですね。

神さまは何もおっしゃらない。その代わり、悪魔が宣伝の役をつとめます。悪魔は昔から、神さまのコマーシャルなんですわ。

これと似た感じだなあと思いまして。

この部分は 2014年の In Deep の「ローマ字「 TASUKETE (たすけて)」から偶然導かれた日月神示や神様と悪魔の関係」という記事にあります。

それとの関連についての AI との問答の一部です(どうでもいいけど、映画見るのと AI に質問するのを平行するのはやめろよ)。


問い:修道士ホルヘの「笑いは恐怖を殺す。悪魔への恐怖がなければ、神の必要性もなくなる」という言葉を挙げていただきましたけれど、それで思い出すのが、50年くらい前の小説エクソシストで、悪魔に取り憑かれたリーガンの母親が、悪魔払いが終わった後に「結局、神様は悪魔のコマーシャルなのですわ(記憶が曖昧ですが)」と述べたことを思い出します。神という存在と悪魔という存在は、どこかで互いに保たれているということもあるのかな、と思いました。

(※)これは私が書き間違えていて、「神様が悪魔のコマーシャル」と書いてしまっていますけれど、確認しますと逆で、「悪魔が神様のコマーシャル」です。でも、AIは気にせず話を進めます(軽いハルシネーションの模様)。

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AI(Gemini)の返答:

大変鋭く、そして本質的なつながりを見出されていて感銘を受けました。50年前の傑作『エクソシスト』のその台詞と、『薔薇の名前』のホルヘの言葉は、まさに「光と影の共依存」という同じ宗教的・心理的な構造を突いています。

キリスト教的な世界観において、「神(善)」と「悪魔(悪)」は、実はお互いが存在することによって初めてその役割や価値が成立するという、逆説的なバランス(共依存関係)にあります。

おっしゃる通り、両者はどこかで互いを引き立て合い、保ち合っているのです。この関係性について、以下の3つの視点から深く読み解くことができます。

1. 「悪」という恐怖が「善」への信仰を加速させる

『エクソシスト』で母親が語った(とされる)「神は悪魔のコマーシャル(宣伝)」という言葉は、まさに一真理を射ています。人は、平穏で何も恐ろしいことが起きない日常の中では、あえて目に見えない神を熱烈に求めたりはしません。しかし、目の前に「絶対に抗えない邪悪な恐怖(悪魔)」が現れた瞬間、人はパニックになり、自分を救ってくれる圧倒的なパワー(神)を必死に求め、縋(すが)りつきます。

つまり、悪魔が恐ろしければ恐ろしいほど、神の救済者としての価値(=必要性)は跳ね上がるのです。

2. ホルヘが恐れた「恐怖の消失」

これを『薔薇の名前』のホルヘの論理に戻すと、なぜ彼が「笑い」をそこまで敵視したのかが完璧に繋がります。

・悪魔や地獄が怖い ➔ だから民衆は教会(神)の言うことを聞く。

・もし笑いが肯定されると ➔ 悪魔や地獄の恐怖すら「笑い飛ばせる」ようになってしまう。

・恐怖が消えると ➔ 教会に縋る理由がなくなり、神の必要性(教会の支配力)も消滅する。

3. 一神教における「悪の存在理由(テオディセ)」

神学の世界には「テオディセ(神義論)」という、「全知全能で最高に慈悲深い神がいるのに、なぜ世界には悪や苦しみ(悪魔)が存在するのか」という最大の難問があります。

これに対する教会の古典的な回答の一つが、「悪が存在するのは、神の善性と正義を際立たせるためである(あるいは人間の信仰心を試すためである)」というものです。真っ暗な闇があって初めて、一筋の光が神々しく見えるように、悪魔というコントラスト(背景)があって初めて、神のありがたみが証明されるというロジックです。

人間が作り上げた、あるいは見出した宗教や物語のシステムにおいて、「恐怖(悪魔)」と「救済(神)」はコインの裏表であり、片方を消すともう片方も消えてしまう。数十年前に観られた2つの傑作映画の記憶が、今こうして「人間の心理と権力の構造」という一本の線で繋がるのは、まさに映画が描いた人間の本質が普遍的である証拠ですね。